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蛮族の本懐

Ne quid nimisというモットーに抗うための試み。

原敬『でたらめ』を読む(2):外国人との交際

 前回のおさらい

rasiel9713.hatenablog.com

 今回の記事では、外国人との交際というトピックを取り上げる。内地雑居が始まろうとしていた時代に、原敬はどのようなことを考えていたのだろうか。

「内外人の交際」

 原敬は「新条約」即ち日英通商航海条約の発効(1899年)を前提として、「内外人の交際」についても言及している。

内外人の個人間の交際と云ふものに就て、今日見る所では遺憾に思はれることが多い、お互に言葉の通ずると通じないとに依て関係も違ふが、併し何うも日本人の外国人に出逢ふと云ふことに就ては、一種不思議なことがある、日本人同志の交際に嘗て無きことがある、それは何かと云へば、俄かに気が変になるやうに見える事である、内国人に対して平常決して言はざる事を外国人に言つて見たり、又平常言ふ事を殊更に言はないで見たり、何やら虚心平気で談話をするのでなくして、気が変つたやうな妙な工合に見える、対外硬などを唱ふる論者には却て之が多い、故に通弁でも為てやらうものなら、何うも余り突飛な余り不思議な説があつて、通弁も翻訳もされないと云ふやうな場合がある……一例を挙げて言へば、通弁に依て話をする場合には、少しく政治家めいた人などは、忽ち東洋の形勢などと云ふことを持出す……さうかと思ふと又雑談の積りか何うも聴くに忍びざることなどを言ふ、平常其人の癖がさうであるかと云へば、此人は誰なり彼なり捉へて東洋の形勢を談ずると云ふやうな人でもない、又誰にも彼にも言ふに忍びざるやうな事を云ふ人でもない、併し通弁によって外国人と話をするか、又は外国人の少々出来る日本語を頼みとして話をする機には夫れが出てくる*1

 原はさらに以下のように指摘する。

全体日本人は外国人と交際する場合に、何となく臆して見える、男子にしても女子にしても左様である、是れは少しく理由があると思ふ、マア衣服の一端に就ても西洋を真似て居る故に、斯う云ふ風は西洋人に笑はれはしまいか、可笑くはあるまいかと云ふやうな気が、本家本元の西洋人に対すると起るかと思ふ、夫が病根であらう*2

 引用箇所の「本家本元」なる表現からも、原が永井荷風と同様に「本店と支店」という視角を有していることは明らかだが、興味深いのは「支店」側の人間が萎縮するのではなく、必要以上に自身を大きく見せようと躍起になると指摘されている点である。「弱い犬ほどよく吠える」というと陳腐な気もするが、野坂昭如の「アメリカひじき」に活写されているような屈折した感情に似たものをこの「日本人」からは感じる。「アメリカひじき」の主人公は物語の最後の方で以下のように毒づく。当時『でたらめ』を読んでいた「日本人」の中には「でたらめ記者」に同様の思いを抱いた者もいたのでは、と想像すると流石に深読みか。

日本人かて俺と同じ年頃やないと理解できへんやろ、アメリカ人と平気で話できる奴、アメリカへ行って、まわり近所全部アメリカ人のとこでべつに気も狂わん奴、アメリカ人が視野の中に入っても身がまえんですむ奴、英語しゃべって恥かしない奴、アメリカ人けなす奴、賞める奴、そんな奴に吉ちゃんの、いや俺の中のアメリカはわかるわけない*3

 さて、私自身の経験として、外国語を話している最中に人格が変わってしまったような気持ちになったことが何度かある。外国語で話すといって一般的にイメージされるのは、頭の中で話す内容を日本語で考えた上で、それを外国語に翻訳して発話するという営みだろう。勿論どの外国語を選ぶにせよ、初学者はそうせざるを得ないし、またそうするのが慣れるためには不可欠である。しかし、ある程度まで外国語に習熟してくると、その外国語でしか表現できない領域が存在することにふと気付く。この点を意識し始めると、徐々に外国語で思考して外国語で発話するという回路が形成され、強化されていくことになる。言語は思考を支配する。だから一度でも外国語での思考回路を構築した者は、日本語言論空間を相対化することができるようになる。ここから「だから日本はだめなのだ」という結論を急ぐか否かは論者によって様々であろうが、いずれにせよ、私の考える多言語習得の圧倒的なメリットは思考の可動域を拡張できる点にある。

 もっとも、この「多言語のススメ」がある種のエリート主義であることは否定できない。丸山真男も『翻訳と日本の近代』の中で以下のように述懐している。

ぼくも、外国文学はだいたい岩波文庫で読んだ。でも、旧制高校などでは、原書を読まないと本物じゃないという空気はあったな。エリート主義といえばエリート主義なんだけど、原書を読め、とさかんに言われたね。ぼくも、文学なんかは本職じゃないからと思って翻訳で読んだけれども、自分の専門ということになると、原書。そういうところはあるね*4

人生には限りがあるため、どんなに能力の高い人間であっても、自身の読みたいと欲する原書を読み尽くすことなどできはしない。それゆえ「原書を読め」という発言はただのマウンティングだとも言えるが、しかしそれでも、多言語習得や原書講読が日本語言論空間の中で視野狭窄に陥って夜郎自大な振る舞いをすることの歯止めとして機能することは疑いないと私は思う。思想・哲学マニア系の大学生ブロガー(大抵の場合、哲学科で伝統的な教育を受けているわけではない)が引き籠もって、岩波文庫の青版や白版を多読しているうちに、インプットしたはずの知識が時間の経過と共に忘却の彼方へ失われる恐怖から徐々に精神を病んでいった例を私はいくつか知っているが、彼らもまた日本語言論空間の中で溺れた被害者なのかもしれないと最近は思うようになった。「本店」を知ることは精神衛生上も極めて重要なのである。これは報道の自由度ランキング72位の国家に生活する者にとっては喫緊の課題であるとも言えよう。

 閑話休題、原は「如何に外国の文物制度を真似るからと云つて始終其文物制度の本元へ対して臆すると云ふやうな事では、国と国との交際でも個人間の交際でも対等に出来るものぢやない、故に其臆病心は断然捨てて貰ひたい」と叱咤激励し*5、以下のような展望を開陳している。

外国人の如き遠来の者は、多少世話をして遣らなければならぬ、夫は欧米各国を旅行しても其通りである、外国人は内国人よりは、大目に見て貰ふたり、好く取扱はれたり、即ち好遇されるのである、故に外国人を多少好く扱ふとか、便利を与えて遣るとか云ふことこそあるべき筈にて、外国人を疎外したり、又は外国人に対して臆病心を起す様にては、トテも親密なる交際が出来ない、親密なる交際が出来なければ、総ての事に就て不便を感じ、相互の利益を計る事も出来ない、殊に外国人が是れから内地に来て、日本の女を娶つて妻にする者もあらうし、又日本の男に嫁入する女もあらうし、又日本人の養子に成る者もあらう、兎に角雑婚と云ふ事が行はれて、所謂合の子と云ふ者は沢山殖えるであらう、此合の子も亦外国の籍に入る者は外国人であるが、之を外国人だと云ふとで、日本に風化せしむることの出来ぬ様では、尚ほ更面白からぬ、而して是等は皆な箇人間の交際如何に因るものであると云ふ事は一般に了解せねばなるまい*6

  ポピュリズムや排外主義の嵐が吹き荒れる今日に生きる人間からすれば、(後付ではあるが)結果的に原の見通しは楽観的に過ぎたと言わざるを得ない。「合の子」を含めて考えても、在日外国人へのヘイトスピーチ、外国人研修生のいわば「奴隷的苦役」への従事、不法滞在者の本国強制送還(カルデロン事件など)、国際結婚破綻後の子の奪い合いなど問題は山積しており、極めて遺憾ながら社会の劣化を痛感する次第である。政治家としての評価はともあれ、原は開明的なジャーナリストとしては再評価されて然るべきではなかろうか。

(次回継続)

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翻訳と日本の近代 (岩波新書)

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*1:『復刻 でたらめ(原敬著)』盛岡市原敬記念館、2004年、101-104頁。

*2:同書、106頁。

*3:野坂昭如『アメリカひじき・火垂るの墓新潮文庫、改版、2003年、99頁。

*4:丸山真男加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書、1998年、59-60頁。

*5:『復刻 でたらめ』、109-110頁。

*6:同書、111-112頁。