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蛮族の本懐

Ne quid nimisというモットーに抗うための試み。

原敬『でたらめ』を読む(4):原の大阪観(2)

前回のおさらい

rasiel9713.hatenablog.com

 少し間が空いてしまったが、引き続き原の大阪観を探っていく。前回は大阪に関する様々な記述を横断的に検討したが、今回は「客の代人」という何とも不思議なトピックを扱う。この慣行が現在も大阪に残っているのかどうかは知らないが、原の大阪観を浮き彫りにする上で最適なトピックと思われるので、ここで取り上げる。

 なお、本連載を最初から読みたい方はこちら

「お客の代人」

 「客の代人」については、あれこれ説明するより原の記述を読んだ方が理解が早いと思われるので、以下、原文を引用しながら随時コメントしていくことにする。なお、引用中の下線は全て私によるものである。

客の代人と云ふことは何な事か、是れが解る所は、日本国中は愚かなこと、世界各国中大阪を除いてはあるまい、客を招く、其来る客は本人でない、代人である、是れは大阪では度々見る悪習であるが、何処の国にコンナ所があるものか、客を招くは何の某を招くのである、然るに何の某は来らずして、思ひもよらぬ代人が来る、嫁の見会をして替玉が出た奇談はあるが、客の代人と云ふことは前代未聞世界各国無類飛切の珍聞である*1

 「客の代人」とは文字通り、招待した客人の代わりにやってくる人間を指す。その法的構成はさておき、原は「客の代人」の横行に猛然と批判を加える。

客を招くには、相客は誰々にする、誰と誰との同席は釣合は何うであらうか、御馳走は何うするか、席順は何うするか、就中此席順などに関しては、前にも言つた様に、なかなか面倒で、心配のものであるが、斯くして招いた其客の内に、本人が来ずして代人が来ると云つては、言語道断何んとも評し様のない馬鹿気た話だ/是れが旭日の昇る如き勢を以て、世界無比の進歩をなしたる大日本帝国の其第二の都府と誇る此大阪の真中に之ありといふに至つては、記者も大阪市民の一人として、穴があらば這入りたいほど恥入る次第である*2

 まず、原は二つの理由を挙げて「客の代人」を批判している。第一に、この悪習によって接待を主催する側の苦労が台無しになるため。第二に、「大日本帝国其第二の都府」である大阪で悪習が罷り通るのが「大阪市民の一人として」恥ずかしいため。ここで注目したいのは、ありふれた前者の批判ではなく後者の方である。原は「大阪市民の一人として」と書いてこそいるが、その前提をなすのが大阪出身者の郷土愛などではなく、帝国主義的なナショナリズムであることは見逃せない。原は「客の代人」という慣習のせいで「大日本帝国」の威信が下がることを警戒しているのであり、彼にとって大阪の矯風は「大日本帝国」をさらなる繁栄へ導く一段階でしかなかった。こうした姿勢に政治家・原敬の片鱗を窺うのは深読みだろうか。

 さて、ついでに「客の代人」の法的構成について考えを巡らせてみよう。とはいえ、この慣行は西欧法の継受(Rezeption)に先立つものである可能性が高いため、現行の日本民法典の法概念や条文に照らして考えるとアナクロニズムに陥る虞がある。そこで本記事では原の整理および見解に即して「客の代人」の概念を再構築することを目指す。原は次のように述べる。

全体客を招く案内状には、何の某様と云ふ宛名がある、依て其宛名の人が行くとか行かぬとか返事をするであらう、行かぬと云へば夫れ迄の事だが、行くと云ふなら無論本人が行くのだ、所で其本人が行かずして代人を遣ると云へば、第一に是れは嘘を吐くのだ、さうして行く奴は何んな間抜か知らないが、恥かしいとも何んとも思はず、平気で出掛けて喰つたり飲んだりして帰る、主人に対しても失礼であれば、相客に対しても失礼である、其失礼は主人も相客も辛抱した処で、代人を送つた奴も、代人として出掛けた奴も、世間に対して其無智文盲の馬鹿サ加減を表白するのである*3

知らずして為るのか、知つて為るのか、客に呼ばれて代人を送るとは驚た話だが、何ぜコンナ奴を追払はぬのであるか、少しも遠慮の入るものでない、サツサツと追払ふが宜しい、遠慮して追払はぬと、主人も同罪で、相客に対して失礼になる、斯く云ふと或る人は御尤至極其通りに相違ないが、何分にも大勢を招いた場合などには、客の顔を知らぬことがあるから、困ると云ふソンナラ此代人奴は、主人の不案内に附込んで、喰ひに行くのだ、丁度掏摸〔すり〕同様だ、掏摸が客に化けて行くと云ふ話がある、それと同様だ、酷いとも何んとも云ひ様がない*4

会社の総会には代人の出掛けることが多い、大阪は総会の多いところだから、代人を送る奴は総会同様に思つてるだらうと云ふ説もあるが、総会だつて資格のある者が委任状を持て行ではないか、況して宴会に名も知れない奴が代人に出掛て宜しいものか、宜しくないものか、其位の事は余つぽど馬鹿な奴でも解る筈だ、何でも此代人を送る奴も、代人として行く奴も、ツマル所は其御馳走を喰ひたいのだらう、御馳走を喰ひたいばかりの奴ならば、代金を與つても受取だらう、其方が生で宜しいと喜ぶかも知れない、以来此代人が来たならばサツサツと追払つて、酒代の弐拾銭も呉れてやつた方が宜しかろう*5

コンナことは吾々大阪市民としては、云ふのも外聞悪いけれども云はねば何時までも為るだらう、云ふは一時の恥、云はねば末代の恥だから、没分暁漢〔わからずや〕にはお気の毒だが、敢て一言する、チト気を注けては何うだい*6

 こうした記述から、「客の代人」が日本民法典にいう代理人(民法99条1項)でないことは明らかだろう。勿論、原も代理制度一般を否定しているわけではなく、例えば株主総会における議決権の代理行使(会社法310条1項)については本文中で認めている。しかし接待の場となると話は別で、本人性が重視されている。ここまでは至極当然のようにも思われるが、興味深いのは「客の代人」を受け入れた「主人も同罪」と述べられていることだ。「客の代人」が「掏摸」に喩えられていることからすれば、「主人も同罪」とは、犯罪に巻き込まれた側にも責任があるという発想に近い。この発想の背後には、毅然とした態度でいれば騙されることはないという思い込みがあるのだろう。この思い込みは昨今罷り通る二次加害を目にするにつけても、本邦に根強く残っているように思われる*7

 「主人も同罪」についてもう少し考えてみよう。表見代理民法109条、110条、112条)や無権代理行為の追認(民法113条1項)を知っている法律家なら、一定の場合に本人に責任が及ぶことはそれほど奇異には感じないだろうが、「主人も同罪」とまで言われると若干の違和感を覚えるのではないか。本人・代人・主人の「三方悪し」とでも表現すべき全方位への責任波及は、結局責任の所在をうやむやにするだけであり、丸山眞男が「軍国主義者の精神形態」(1949年)で唱えた「無責任の体系」を市井レベルに矮小化したようなものである*8。しかし、一旦法律家というプロフェッションの外套を脱ぎ捨てて「普通の日本人」として市井に溶け込めば、うっかり原の見解に同調してしまう者もいるのではないだろうか。胸に手を当てて考えてみてほしい。

 畢竟、「客の代人」とは私法(Privatrecht)が確立されない社会における未分節の人間関係の連鎖である。「客の代人」は本人が臨席しているかのように扱える代理人でも本人の意向を伝えるためだけに派遣された使者でもない。ここでは主体性が完全に滅失している。換言すれば、「客の代人」が横行する社会に私人はいないということである。この悪循環を断ち切って私法を確立するための第一歩は、後述の通りそもそも「客の代人」を送るのをやめることだ。そして丸山風にまとめるとすれば、「これは昔々ある国に起ったお伽話ではない」*9

原の反批判

 原は上掲記事に対する批判にも応答しているので、併せて紹介しておく。

客の代人に就て、あんまり不都合の次第だと思ふから、其不都合を鳴らして責めた所が、続々賛成の書翰も反対の書翰も到着した/賛成の方にはお礼を申すの外ないが、反対の方には少々言ひたい事がある/反対せらるる方とても、客の代人と云ふ事柄は宜しくないとは認められて居るから、此点には何の申分もないが、兎に角反対説の二三に就て弁駁を述べて見やう*10

其一は客の代人と云ふことは間違だらう、何んぼ何んでも、大阪の如き大都府にソンナ事があり様がないと云はるる、御尤の事にて吾々もさう云ひたいのだが、実際あるには困り切る、是から先きは知らぬこと、是迄は随分沢山ある、嘘と思はるるならば、宴会を為つた人に聞いて見たまへ、困り切つた人もありますぞ*11

其二は代人を送る人は、一たび其案内を承諾した後に、急に差支が起つて、拠〔よんどころ〕なく代人を送るのであらうと云はるる、ソレならば大間違だ、客に招かれたなら、速かに諾否の返事をせねばならぬ、而して断つたなら夫れまでだが、承諾したならば俄かに断つては大変失礼になる、シカシ人間世界のことは、何時何んなことが起るかも知れぬ、病気もあれば急用もある、だから俄かに断ることも出来る筈だが、其時は申訳をして出ないまでのことだ、代人などを送つて、其代人が平気で本人同様に飲んだり喰つたりして帰つては、失礼とも何んとも申様のない話だ、宴会はお寺の坊さんが来なければ、仏事が出来ぬ様な訳ではない、拠なき差支があれば来ないで宜しい、代人に来られては、相客に対しても相済まんことになる*12

其三は主人の方に対する小言で、全体代人が来たとて其代人は申訳を云ひに来るのであるべき筈で、飲んだり喰つたりするのではなからう(決して信用せぬ)だから、ハアさうですか、御出は出来ませんか、宜しい、お帰り下さい、と云つて其代人を門前払にすれば宜しいと云ふのである、代人をさう解釈すれば、夫れで宜しい様だが、此代人先生なかなかさうでない、ズウズウしくも受付に案内させて衆客の居る室に入り、某は出られませんから私は代人に出ましたと、平気で云ふのみか、恰も自分が招かれて来た様に衆客に交りて談笑し、衆客と共に食事する、随分気楽なもんだ、ソコで主人の方では、却て気の毒になり、追払ふ訳にも往かずしてツイ客扱にする場合もある、去りながら此場合にも主人は勇を鼓して追払ふ方が無論に宜しい、故に主人が之を寛大に見て置ては、相客に対しての失礼は、主人も同罪だと、前にも云つたのである、シカシ無理が通れば道理が引込む、元来代人を送ることを止めて貰えば一番宜しい*13

右の外にいろいろの説を申越された人があつて、中には、先頃の記事に代人も代人を送る人も皆んな奴と云つたのは、惨酷などと云ふものもあつたが、成程惨酷かも知れない、けれどもコンナ人を当り前にも云はれまいではないか、内地雑居も近き内に在ることだ/文明国の仲間入りをした以上は、代人などは止めて貰ひたい、西洋人などが聞いたら先づポンチ絵ものだナ*14

 原の軽妙な反批判の蛇足とならぬよう、コメントは一点だけにとどめておく。「実際あるには困り切る」という証言の真実性については、原の記述だけから検証することはできないため、最初の反批判の検討は完全にオーラル・ヒストリーの領分に属する。従軍慰安婦の「記憶違い」や南京大虐殺の「誇張」などに目くじらを立てて、当該事象そのものを否認しようとする機運が盛り上がっている昨今にあっては、原の反批判も「創作実話」「嘘松」「ラルキ」として片付けられてしまうのだろうか。いや、原に対して“No, not you. You're fake news”と投書していた御仁がいたことからして、「大日本帝国」の臣民は新大陸のビジネスパースンの100年以上先を行っていたとも言えよう。そうであるとすれば、「ポスト・トゥルース」時代の幕開けなどと心配する必要もないことになる。我々は既に沼の中である。

 なお、最後に触れられている「ポンチ絵」 とは風刺画の謂だが、最近は全く異なる意味で使われているようである*15

(次回継続)

関連書籍

超国家主義の論理と心理 他八篇 (岩波文庫)

超国家主義の論理と心理 他八篇 (岩波文庫)

 

*1:『復刻 でたらめ(原敬著)』盛岡市原敬記念館、2004年、175頁。

*2:同書、175-176頁。

*3:同書、176-177頁。

*4:同書、177-178頁。

*5:同書、178-179頁。

*6:同書、179-180頁。

*7:この点については、小林ギリ子氏のツイッターを参照されたい。

*8:勿論、丸山の整理がそのまま「客の代人」というトピックに当てはまるわけではないが、「客の代人」が末端で暴れ回る「無法者」であるとは言えるのではないか。

*9:丸山眞男(古矢旬編)『超国家主義の論理と心理 他八編』岩波文庫、2015年、205頁。

*10:『復刻 でたらめ(原敬著)』、180頁。

*11:同書、181頁。

*12:同書、181-182頁。

*13:同書、182-184頁。

*14:同書、184頁。

*15:例えば、https://togetter.com/li/946064およびhttps://togetter.com/li/1094995を参照。