蛮族の本懐

Ne quid nimisというモットーに抗うための試み。

Welcome to Hokkaido (6/完):視察 最北の旧帝大

前回のおさらい

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連載終了に当たっての御挨拶

 皆様ごきげんよう。9月3連休の台風18号も去り、札幌はすっかり秋めいてきました。さて、私が札幌に来てからもうすぐ半年が経過しますが、このたび半年の節目に長期出張の終了が決まりましたので御報告します。

 この半年間、仕事でもプライベートでも色々な変化がありましたが、最も大きな変化はオートバイの免許を取得し、TOURING SEROWを購入したこです。

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 SEROWのおかげで行動範囲が一気に広がった私は、ほぼ毎週のように札幌市外へツーリングに出掛けるようになりました。すると、札幌は私の北海道ツーリングの拠点に様変わりしたのです。私はこれまで5回に渡り、“Welcome to Hokkai-do”シリーズと称して、札幌初心者目線で札幌の観光スポットの紹介記事を書き連ねてきました。最初の頃は札幌自体が探索の対象であり、新鮮な好奇心の対象でした。しかし、少しずつ札幌での生活に慣れるとともに、札幌市外の多様な自然・歴史・文化・住まいなどに触れていくうちに、札幌への感動が徐々に失せていったのは否定できません。これは私が良くも悪くも観光客の殻を破り、居留者に変貌を遂げた証左だと思います。

 そこで、札幌滞在半年の節目を迎えるこのタイミングで“Welcome to Hokkai-do”シリーズの連載を終えることを決めました*1。どこかキリの良いタイミングで本連載を締めようとは思っていたので、丁度良い転機が訪れたと感じています。本連載の最終回で扱うのは、日本最北の旧帝大北海道大学(以下、北大)です。北大には既に6月下旬と7月末に足を運んでいたのですが、「北大の歴史を勉強してから記事を書こう」と先延ばしにしているうちに今日を迎えてしまいました。札幌を離れる前に北大という積み残しを消化して、“Welcome to Hokkai-do”シリーズを締めようと思います。それでは、最終回をどうぞ。

北大 札幌キャンパス周遊(1):中央ローン周辺

 去る2017年6月24日、大学時代の後輩M氏に連れられて北大を視察して参りました。M氏は大学卒業後に北大の大学院に進学し、現在は札幌で暮らしています。偶然にも私の長期出張が決まったため、札幌で会う約束を取り付けまして、食事の席で私から北大の案内を依頼しました。ありがたいことにM氏は案内役を快諾してくれまして、新緑の季節に北大視察と相成ったわけです*2

 北大札幌キャンパスの敷地面積は1,776,249㎡で、東京ドーム約38個分に及んでいます*3。南北方向には地下鉄南北線さっぽろ駅北18条駅間以上の距離があり、端から端まで歩くのも一苦労です(下図参照)。6月24日の視察は北大正門から出発し、中央道路を北上して札幌農学校第2農場を見学した後、南に引き返すルートを取りました。午前10時に北大正門を出発して、午後3時に北大正門で解散するまでほぼ5時間歩き通しでしたのでかなり疲れましたが、後日敷地の広さを知って疲労にも納得がいきました。

https://www.vetmed.hokudai.ac.jp/VMTH/assets_c/2013/05/2013-05-09_142924-thumb-1240x1752-128.jpg

http://poplar-trees.up.n.seesaa.net/poplar-trees/image/map2004.jpg?d=a1

 JR札幌駅北口から歩くこと約5分、北大正門に到着しました。この日は生憎の雨模様でしたが、視察は雨天決行です。正門前で蝙蝠傘を指したM氏と合流し、M氏の札幌生活のエピソードを聞きながら北大構内に入りました。

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 九州出身のM氏は厳冬の時期、通学途中に風に煽られて転倒したことがあるというのです。転倒がM氏の華奢な体型によるものなのか、雪道の歩き方を知らないことによるものなのかは分かりません。仙台出身の私は幼少の砌より、アイスバーンで盛大にコケる都会人の様子をテレビで見るたびに「どうしてこんなに見事に転べるんだ?」と疑問に思ってきましたが、M氏の話を聞いた時も「まさか転倒まではしないだろう」と思いました。ただ、私も札幌の厳冬は経験したことがありませんので、もしかしたら転倒もやむなしと言えるかもしれません。この点についてはご意見をお待ちしております!

 M氏の転倒はともかく、早速「大志」(ambition)というキーワードを目にすることに。正門を通って右側、事務局庁舎の前に建つ北大予科記念碑です。

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costep.open-ed.hokudai.ac.jp

 正門から直進していくと、左手に見えてくるのが中央ローンです。中央ローンを流れるのはサクシュコトニ川。現在はポンプで汲み上げた水が流れる人工の川ですが、1940年代までは水を豊かに湛えた自然の川でした。冬の時期には水を堰き止めることで辺り一面をスケート・リンクとして利用していたこともあるようです。また、中央ローン付近は日本におけるスキー発祥の地でもあります*4。なお、M氏によれば、現在の中央ローンは子供の遊び場でもあり(下掲写真参照)、冬の時期にはソリで滑る子供の姿を見られるとの事です。

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 クラーク像。1926年に北大創基50周年事業として建立され、アジア・太平洋戦争期の金属回収令を受けて鋳潰された後、1948年に再建されて今に至っています*5。M氏によれば、北大構内のクラーク像の混雑緩和のため、羊ヶ丘展望台にクラークの立像が設置されたとの事ですが、真偽の程は定かではありません。

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 クラーク像の向かいに建つのが古河講堂(1909年建設)。現在は文学研究科の研究室として利用されている本講堂は、古河家の寄附を受けて建設されたために「古河講堂」と呼ばれています。この寄附は古河鉱業会社の顧問を務めていた原敬が、足尾銅山鉱毒事件(1887年)や足尾銅山における鉱夫集団の大暴動(1907年)などによって名声が失墜していた古河家に対して、名誉挽回のため政府に100万円の寄附を行うよう提案したことで実現しました。この寄附は帝国大学創設費として使われ、そのうち135,000円が東北帝国大学農科大学(1907年に札幌農学校から昇格)に割り当てられました*6。古河講堂はこの寄附の一部を財源として建設されたわけです。

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 なお、古河講堂によって隣接する経済学部棟が日照を奪われているという現代的問題もあるそうで、歴史的建造物が「ウドの大木」になっている実例の一つとして本講堂を評価することもできるでしょう*7。歴史的建造物との付き合い方を大学当局や行政が考え続けなくてはならないことに鑑みると、このような遮蔽物も一定の教育効果を持っていると言わざるを得ません。

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 古河講堂を後にして、中央道路を暫く北上すると左手に見えてくるのが大野池です。この池は大野和男(1968年3月1日~1972年4月30日、工学部長)の立案により、湿地帯が池として整備されたことにちなんで「大野池」と呼ばれています。大野池の中央部には湧泉が今日も命脈を保っており*8、人々の憩いの小公園となっています。東京大学三四郎ほど歴史のある池ではありませんが、自然に囲まれた北大らしい景観の一つとして注目に値します。

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札幌農学校第2農場

 さて、中央道路の突き当たりに位置するのが札幌農学校第2農場重要文化財)です。第2農場は1876年9月13日、W. S. クラークの大農経営構想によって、北海道開拓の模範農場として発足しました。第2農場の9棟の諸建造物は1909年から1911年にかけて現在地へ移築または新築されて今に至っています。

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 門をくぐれば、そこには大学構内とは思えない景観が広がっています(人文系卒並の感想)。以下では、第2農場の諸建造物について見ていきます。

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 製乳所(1911年建築)。正面の白い鉄扉は氷室の扉で、外から氷を入れられる設計となっています。扉の下は牛酪冷蔵室となっており、パイプを通じて冷気を送ることでバターやチーズを製造していたとの事です。

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 竃場(1911年建築)。石造の建物(札幌軟石製)で、内部には飼料を煮込む大きな竃が2つ据え付けられ、農夫たちの溜まり場ともなっていたようです。

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 牝牛舎(1909年建築)。南半分の「甲舎」と北半分の「乙舎」を中央棟が繋ぐ形式で建てられた堅牢な建造物です。公式パンフレットによれば、「甲舎」は基礎もレンガ積みとなっていますが、冬場に床温度が上がらずに搾乳に悪影響を及ぼす懸念からか、牛房の床だけは木を張っているとの事です。なお、「乙舎」は基礎をレンガ積みとしていません。「甲舎」と「乙舎」が設計上どうして非対称に建てられたのか、理由はよく分かっていないようです。

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 向かって右側が「甲舎」、左側が「乙舎」です。

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 別の角度から見た牝牛舎。牝牛舎の裏側に見える円筒状の建造物は緑飼貯蔵室(サイロ、1912年建築)です。

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 コーン・バーン(Corn Barn; 1877年建築、1911年移築)。渡り廊下を介して収穫室・脱稃室(1911年建築)に接続する穀物庫です。高床式の建造物でネズミ返しが設置されていますが、収穫室・脱稃室側にネズミ返しがないため結局意味がなかったとガイドの方が話していました。それでいいのか!

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 モデル・バーン(Model Barn; 1877年建築、1910年移築)。この建造物はクラークの精神・構想を最も純粋に伝える遺構と言われています。牛馬舎の階上にはバルーン・フレイム構造を取り入れた干し草置き場(hay floor)が広がり、夏の間に階上に運び込んだ干し草を僅かな人力で階下に落として給餌することができました。この建造物をもって日本農業近代化の模範とせよ、というクラークの熱意がモデル・バーンという名前を付けさせたと言われています*9

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 モデル・バーン2階北側の窓から望むコーン・バーン。

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 モデル・バーン2階南側の窓から望む牝牛舎とサイロ。

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 ところで、モデル・バーンには様々な農具が展示してあり、「鋤とシャベル」のパネルの記述が興味深かったので紹介します。

 今日では、シャベルとスコップの用語区分が大変に混乱している。JIS規格は、刃部に足を掛ける部分があるのをシャベル、ないのをスコップと定めているが、東日本では逆の呼び方をする。また一般的には、そのサイズで区分し、東日本では大:スコップ、小:シャベルが多いのに、西日本では逆に大をシャベルと呼ぶ人が多い。

確かに仙台出身の私は足を掛けて使う大きなものをスコップ、園芸などで使う小さなものをシャベルと呼ぶのですが、九州出身のM氏は全く逆に呼んできたとの事で、お互いにカルチャー・ショックを覚えました。読者の皆さんの地域ではいかがでしょうか。ご家族・ご友人の方とこの件について話してみると面白いかもしれませんよ。

北大 札幌キャンパス周遊(2):中央道路沿い

 さて、札幌農学校第2農場の視察を終えて、時刻は11時半頃。歩き回って小腹も空いてきたところで、食堂で早めのお昼にしました。M氏と1時間ほど談笑した後、雨がなお降りしきる中、北大視察を再開。後半戦の開幕です!

 時刻は12時半過ぎ。午後になって最初に訪れたのは人工雪誕生の地記念碑です。1979年に建設されたこの石碑は、1936年3月12日に理学部物理学科の中谷宇吉郎教授が世界で初めて人工雪の結晶創出に成功したことを記念するものです。元々この場所には常時低温研究室が建っていましたが、建物の老朽化が酷かったため1978年8月に撤去され、代わりに記念碑が設置されて今に至っています*10

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 先日、東京工業大学大隅良典栄誉教授が「日本からノーベル賞出なくなる」と懸念を示した記事が日経電子版に掲載されたばかりですが、研究環境(主に金回り・就職事情)が著しく劣化する中で、もはや過去の栄光を懐古する以外の道が残されているのだろうかと絶望的な心境にならざるを得ません(単純に昔は「世界レベル」のハードルが低かっただけという可能性もありそうですが)。

www.nikkei.com

 雨が強まってきたので、雨宿りも兼ねて北大総合博物館を見学することにしました。北大総合博物館は北海道帝国大学理学部本館(1929年建設)を1999年4月に改装した施設で、2015年4月~2016年7月の耐震改修工事を経てリニューアルオープンを果たしました。M氏も入学当初は工事中で入れず、そのまま入館の機会を逸していたため、今回が初入館との事。やや興奮した面持ちのM氏と共に博物館へ足を踏み入れました(勿論、入館料は無料です)。

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 総合博物館は1階の前半で北大の歴史に関する展示、1階の後半から2階にかけて各学部の研究・教育に関する展示、3階で収蔵標本の展示を行っており、入館無料とは思えぬヴォリュームで驚きました。概ね満足はしたのですが、北大の歴史に関する展示では北大のポジション・トークが堂々と開陳されていて辟易する点がありました。以下、北大のポジション・トークについてコメントします。

 黒田清隆に関するパネルに黒田清隆榎本武揚の美談」という項目があり、そこには次のように書かれています。

箱舘戦争で旧幕府軍が劣勢となるや、榎本は捕らえていた政府側の捕虜を解放してやる。黒田は副官田島圭蔵(かつて榎本軍の捕虜になり、送り返された一人)を使者にたて、捕虜の取り扱いを謝するとともに、榎本に降伏を勧めた。

榎本武揚は降伏を断り、彼に、「これからの日本に必要な書物である、戦火で焼かれてしまうのは忍びない。新政府で役立ててくれ」と、ある書物を言付ける。海の国際法と外交について書かれた書物で、榎本武揚がオランダ留学の際、全てを書き写してきた「万国海律全書」である。

これに対して、黒田は五稜郭開城前夜、攻撃をやめ、灘の酒5樽とマグロ5本を榎本に贈る。さらに、戦いのための武器弾薬が不足しているなら送りますとまで申し出る。武器弾薬は断り酒とつまみは榎本大いに喜び中間と今生の別れの杯を酌み交わす。榎本は敵将が黒田のような男であるならばと、降伏を決意。自らは自決を覚悟。黒田は榎本らを決して殺すなと軍に命じ、彼らを捕虜とする。

黒田は投獄された榎本らを解放せよと政府に迫る。なかなか解放されないと、髪を剃って政府に抗議。ついに釈放させる。榎本らを開拓使の要職に迎える。

 その下の 黒田清隆の度量により救われた人々の活躍」という項目には、次のように書かれています。

黒田は、はっきりとした自己主張を持ち、正論を展開する相手には、意見は違っても敬意を表し、優秀なものはどんどん重要な地位につける度量を持っていた。

 既に本連載の初回記事で北海道の従属性については指摘しました。黒田清隆は第3代開拓長官を務めた人物であり、大通に黒田清隆ケプロンの巨大な銅像が建っているということからも札幌に対する影響力の大きさが窺われます。こうした開拓者の美化は、一般的に言っても暴力や権力の美化に直結しやすいので警戒が必要ですが、総合博物館が留保もなしに黒田を美化して描いているとは見識を疑います。また、黒田が赦しを求めた榎本武揚も、函館旅行記で書いたようにアンビヴァレントな人物であるのにもかかわらず、黒田の度量の広さを示すための道具として利用されている感があり、展示担当者は黒田や榎本のスポークスマンなのかと疑念(ひいては怒り)が湧き上がります。

 なお、岩沢健蔵も「黒田清隆が学校運営の一切をクラークに任せきったのでクラークもあれだけのことができた。黒田は毀誉褒貶定まらぬ人物ではあった……男子ことを成さんとせば先ず人を選ぶ、選んだら任せきる、万一こと成らざる時はおいどんが腹バ切り申す、という薩摩型の美風がクラークとの関係において良好に作用した/佐藤昌介も後年、黒田の力を借りた。北大は、黒田の悪くちをいえない」と書いており*11、これはまさに事務方のポジション・トークそのものであります。黒田や榎本の強権的・権威主義的な側面が明らかになっている現在にあっては、むしろ北大はこうした問題のある政治家によって築かれた大学であるという事実を直視し、体制同調的な気風を廃していかに学問の自由や大学の自治を貫徹するかという点を喧々諤々論ずるべきではないでしょうか。生みの親(しかもここでは政治家)を突き放せないようでは、大学も国家の呪縛から自由にはなれません。そうした気概が一切感じられないのは残念なことです。

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北大 札幌キャンパス周遊(3):北大の自然

 さて、総合博物館を後にすると時刻は14時半。実に2時間近く総合博物館の展示に目を奪われていた計算になります。我々はM氏オススメの花木園に向かうべく、キャンパス西側へ歩き出しました。道中、草を食む羊の群れを目撃。大学構内に羊が生息しているなんて、なかなか見ることのできない新鮮な光景です。

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 花木園の入口には新渡戸稲造博士顕彰碑が建っています。“I wish to be a bridge across the Pacific”(私は太平洋の架け橋になりたい)という新渡戸の言葉が刻まれています。なお、新渡戸は実際に博士号を取得していますから、東大法学部で横行している学歴詐称級の「博士」呼ばわりとは全く違います。

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 花木園は北国に多く見られる花木が自然風に植えられた教育実習林です。この日は雨模様のため地面がぬかるんでおり、空気もジメジメしていましたが、晴天のもとであれば清々しい場所に違いないと想像します。なお、M氏オススメのクロユリ群生地は既に見頃を終えて枯れておりました。残念!

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 花木園に隣接するのが有名なポプラ並木です。ポプラ並木は1982年の観光記念タバコの図柄にも採用されたほどの有名ぶりで、一年で何万人・何十万人という観光客が押し寄せるというから驚きです。この地にポプラが最初に植樹されたのは1912年4月か5月の事ですが、ポプラの寿命はせいぜい60~70年のため、現存しているポプラの大半は植物としての命脈が尽きています。そのためいつ倒壊するか分からず、奥へは立入禁止になっています*12

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 総合博物館と農学部本館の間に広がるエルムの森にも、歴史的建造物が残されています。数十本のエルム(ハルニレ)が自生する森林の中に建つ重厚な石倉こそ、昆虫学の権威・松村松年博士の標本庫です(1927年建設)。緑色の屋根に白壁の旧昆虫学及養蚕学教室(1901年建設)のすぐ北側にある貴重な標本庫は、アレな学生のフリー・クライミング現場と化しているようで、何処の大学生もそんなものかと失笑がこぼれてしまいます*13

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 旧昆虫学及養蚕学教室や標本庫の西側に位置するのが旧図書館(1902年建設)。現在の附属図書館が1965年に建てられるまでの60余年にわたって、北大の中央図書館の役割を果たしました。現在も北大出版会などが利用している現役の建造物です。1916年に講堂ができるまでは入学式や卒業式などの全校行事も旧図書館の閲覧室で行われたとの事ですから、エルムの森に迎えられ、エルムの森から巣立っていくという学生生活には少しだけ憧れる気持ちもあります*14

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 北大を周遊して時刻は15時。正門まで戻ってきました。事務局庁舎前の「北大の父」こと佐藤昌介像の付近でM氏と別れ、今回の北大視察は終了となりました。佐藤昌介は札幌農学校第1期生の「長兄」的存在で、卒業後は教育行政家としての才覚を発揮し、1891年から1930年に至るまでの約40年間、一貫して北大の最高指導者であり続けた人物です。北大視察の〆は佐藤昌介と共に。今の北大生、ひいては全国の学生諸君にはフロンティア精神はあるか? そんな厳しい問いを銅像の鋭い眼光から感じるのは、流石に妄想が過ぎるでしょうか*15

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おわりに

 後日追記予定です。

(2017年10月8日追記)今回の北大視察記事をもって、“Welcome to Hokkai-do”シリーズは連載終了となります。ただ、札幌長期出張中に訪れた場所は他にもいくつかあり、未公開の写真(と思い出)も沢山残されています。出張の落ち着かない日々が終わりを告げ、再び東京を拠点として行動できるようになりましたので、今後もしばらくはマイペースに北海道旅行記を書き連ねていきます。今後の予定としては、小樽荒天編を書き上げた後、室蘭旅行記(時々苫小牧)小樽晴天編に着手するつもりです。引き続きよろしくお願いします。じゃっ!✋

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*1:勿論、札幌には私がまだ見ぬ面白い場所がたくさん残されていると思いますし、何より私は札幌の厳冬をまだ経験していません。ですが、ここから先は札幌への習熟度が高まるだけであり、新鮮な驚きやワクワクを書き綴ることは難しいでしょう。次に札幌を訪れた時の「旅行記」は別のタイトルで展開するのが望ましいと判断した次第です。

*2:なお、M氏が私の依頼を断れない関係性にあるということはありません!

*3:「東京ドーム○○個分」という表現を見聞きするたびに、よく分からない日本独自の尺度だなと思うのですが、自分でブログを書くとなると便利な表現なので頼ってしまうのでした。イノベーションは難しい!

*4:岩沢健蔵『北大歴史散歩』8刷、北海道大学出版会、2014年、9-10頁を参照。ただ、岩沢は1908年に予科独語教師ハンス・コラーが母国スイスから持参したスキーでスキー術を教えたと述べていますが、別の調査ではコラーが来日時にスキーを携帯していなかったことが明らかになっており、スキー術の伝播は1909年春頃と判明していますので注意が必要です。この点については、中浦皓至「日本スキーの発祥前史についての文献的研究」北海道大学大学院教育学研究科紀要』84号(2001年)、92-93, 96頁を参照。

*5:岩沢『北大歴史散歩』8刷、14-23頁を参照。

*6:同書、2-7頁を参照。なお、岩沢は東北帝国大学農科大学に寄附が割り当てられた背景として、原敬と佐藤昌介農科大学長との同郷の紐帯を想定しています。確かに原敬と佐藤昌介は同い年(1856年生まれ)であり、二人の友情関係を想定することにも一定の理由があるかもしれません。

*7:同書、6-7頁を参照。

*8:同書、113-114頁を参照。

*9:同書、159-168頁を参照。

*10:同書、109-114頁を参照。

*11:同書、163頁。

*12:同書、115-120頁を参照。

*13:同書、72-76頁を参照。

*14:同書、76-78頁を参照。

*15:無論、佐藤昌介が現代の我々を叱りつけられるほどフロンティア精神に溢れていたか否かは検討の余地がありますが、今回の記事ではそこまで考察はしません。