蛮族の本懐

Ne quid nimisというモットーに抗うための試み。

訪問 旧同志社英学校 ~「反日」の志は燃えているか~

はじめに

 2018年1月20日(土)、所用のため同志社大学今出川キャンパスへ行ってきた。私は同志社大学について殆ど何の予備知識も持っていなかった。というより、これまでの人生において明確に意識する対象としてこなかった、と言うのが正確だろう。私は、訪問前に同志社大学の一般的な情報を蒐集することを企てた。イベント会場の立地に振り回されながら見聞を広めるのが、私はとにかく大好きである。今回は一緒に同志社大学について学びを深めていこう。

 同志社大学の前身は、新島襄が1875年11月29日に設立した同志社英学校だ。昨年の函館旅行記でも触れた通り、新島襄という男は、当時の国禁を犯してアメリカ合衆国へ密出国した人物であり、いわば筋金入りの「反日」勢力であったと言えよう。同志社の建学の精神はキリスト教主義に基づく「良心」と「自由」であるが、現政権の取り巻き(及び擁護勢力)が聞いたら烈火のごとく怒りそうなモットーではないか! 新島は日本が近代国家として成熟するためには、一人ひとりの個性/人格が尊重されることが肝要であると考えていたようだが*1「星野君の二塁打」が持て囃される現状を見るにつけても、新島が対峙した得体の知れない習俗は今も強烈に残存していると言わざるを得ない。その意味で、新島がおよそ140年前に描いた理想はなおアクチュアルなままなのである。

 では、世の「同志社人」が新島の理想を胸に「地の塩、世の光」として歩んでいるのかといえば、悲しい哉三人の著名な「同志社人」が一騎当千の悪評を立てているのが現状である。『時をかける少女』ならぬ「少女像にかける老人」(文学部卒)、「サヨク」の「言論弾圧」により講演中止に追い込まれた『自由からの逃走』ならぬ『逃げる力』の著者(ただし法学部中退)、「地政学」大好きなユダヤ陰謀論者の元外務省主任分析官(神学部卒)。この三人のせいで同志社が被る不名誉は甚大である。理想は叶わぬから理想なのだろうか?

 いや、与太話はこれくらいにして、京都市営地下鉄烏丸線・今出川駅直通のキャンパス入口から、同志社の旅へ出発しよう。果たして、どんな同志社の「いま」に出逢えるだろうか? 私は期待と共に自動ドアをくぐった*2

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同志社大学 今出川キャンパス

 今出川駅1番出口から階段を上ると、オープンラウンジが広がる。食堂や大学生協書籍部に囲まれたこのスペースは、良心館の半地下部分にあたる*3。入構まもなく、新島の理想であった「良心」を冠した建物がお出迎えとはなかなか洒落ている(毎日通学するうちにただの風景になりそうではあるが)。実はこの日がFUJIFILM X-A3の本格的なデビュー戦だったのだが、画面が真っ暗にならないようにシャッタースピードや感度等を調節するのが難しいことを早速痛感した。

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 烏丸通側から撮影した良心館の外観。良心館は同志社中学校の跡地に建つ、延床面積40,000㎡を誇るマンモス建築だ(2012年10月竣工)。柱の脇に佇む守衛と比べると、この建造物の大きさは一目瞭然である。

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 広場側から撮影した良心館。この色合いが赤煉瓦造りやレトロビルに惹かれる私を昂ぶらせる。旅行者・寄留者というのは、飽きることなく目に入るものを楽しめる気楽な(地に足のつかない)存在だが、この気楽さあってこそ、普段同志社の学生諸君が慣れきってしまった風景を心ゆくまで堪能できるとも言えよう。

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 振り返ると、広場に面した二つの重要文化財が目に飛び込んでくる。一つ目は1884年に竣工した彰栄館(1979年5月、重文指定)。塔屋は鐘塔と時計塔を兼ねており、同志社中学校の司鐘生(通称ベルマン)が毎朝、礼拝を告げる鐘の音を鳴らしていたそうだ。同志社中学校が2010年の秋に岩倉キャンパスに移転した後は、現在は誰が鐘つきを担当しているのだろうか(未調査)。

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 二つ目は1886年6月に竣工した同志社礼拝堂(1963年7月、重文指定)。広場を挟んで彰栄館の反対側に位置するこのチャペルは、プロテスタントのレンガ造りチャペルとしては現存する日本最古の建物である。

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 正面から眺めるとのっぺりした印象を受けるが、各パーツの造形は繊細だ。円形のバラ窓、左右のアーチ窓、尖りアーチの入口を備えた瀟洒なゴシック建築。見るアングルによって表情を変える、不思議な魅力を湛えた礼拝堂である。思わず何度も周囲を旋回しながらカメラのシャッターを切ってしまった。

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 この絶妙な色褪せ具合が私を虜にする。

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 礼拝堂正面の植え込みに建つのは同志社中学校記念之碑。この礼拝堂と共に幾多の生徒達が歳を重ねていったことを思わせる、いぶし銀な仕掛けである。

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 さて、目抜き通り沿いに、少しずつキャンパスの奥へ歩みを進めていこう。同志社礼拝堂に隣接するのが、1890年7月に竣工したハリス理化学館(1979年5月、重文指定)。現在は同志社の歴史について学べるギャラリーとなっており、新島襄が恐ろしく英語が出来たことを思わせるノートは必見である。なお、ハリス理化学館前の「八重さん」は、新島襄の妻・八重をモデルとしたキャラクターだ。このパネルはひょっとして記念撮影用だろうか?

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 ハリス理化学館を左手に歩いていくと、一際目を引く建物が突き当たりに見えてくる。1894年1月30日に開館したクラーク記念館だ(1979年5月、重文指定)。当初は「クラーク神学館」という名前で神学教育・研究に利用されていたが、新神学館の完成により改名されて現在に至っている。写真でうまく伝わらないのが残念だが、非常にスケールの大きな建物であり、全体をフレームに収めるには割と距離を取らなければならない。しかし遠目に撮影するとスケール感が表現できない。ままならないものだ!

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 待辰館。クラーク記念館と新神学館の間に建つ小さな建物だ。「一神教学際研究センター」というパワーワードが私を惹き付けてやまない。なお、「待辰館」の名は『詩篇』第130篇第6節に因んでいるとのこと。

  • わがたましひは衛士があしたをまつにまさり誠にえじがあしたをまつにまさりて主をまてり(旧約全書、1888年)
  • 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。(新改訳第3版、2003年)

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 クラーク記念間の裏手に「言は神なりき」と刻まれた石碑を見つけた。『ヨハネによる福音書』の有名な冒頭部分である。キリスト教が「ロゴス」の宗教であることを意識せざるを得ないが、「言は神とともにあり」というのは誤訳ではないか、とずっと考えている。ウルガータ訳を参照する限り、「初めにことばがあった。ことばは神の許にあった。ことばは神であった」と読むのが正しい気がするが、どうなのだろう(apudという前置詞に「~と共に」という意味はない)。

  • 太初はじめことばあり、言は神とともにあり、言は神なりき。(大正改訳、1917年)
  • 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(新改訳第3版、2003年)
  • In principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum(Weber & Gryson (ed.), Biblia sacra iuxta vulgatam versionem, editio quinta, 2007)

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 致遠館。1916年3月に竣工した建物で、徳富蘇峰によってその名を与えられた。諸葛孔明の「寧静に非ずんば以って遠きを到むるなし」に因んでいる(私には意味はよく分からない)とのことだが、こうした命名法に漢籍教養が不可欠であるのは言うまでもない。漢籍教養の伝統が本邦から消滅して久しい。いまや学校の敷地内に武道場や何周年記念講堂を建てても、まともに命名できる教師など誰もいないのである。同志社の建物は名前自体が遺産でもあるのだ。

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 1887年11月に竣工した有終館(1979年5月、重文指定)。同志社の初代図書館として利用された建物で、図書館の役目を終える際に、海老名弾正(第8代同志社総長)によってその名を与えられた。いい感じの経年劣化ぶりが大きな魅力で、個人的には同志社の建物の中で最も心を動かされた。

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 今出川通に面した正門。烏丸通に面した門は実は西門なのだ。同志社を初めて訪れる人は今出川駅から入構することが多いと思われるので、正門を見ることなく帰途につく可能性は大いにある。奥まで来る暇人は得をするのかもしれない。因みに看板から明らかなように、この日は法学部の推薦入試当日であった。

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 正門を背に、今出川通の対岸に見えるのは今出川御門御所に最も近い大学は京都大学ではなく同志社大学なのだということを実感する(だから何だという話だが)。御所、冷泉家、相国寺(後述)……。歴史に囲まれたキャンパスは部外者には眩しすぎた。世界が輝いて見えるためには、余所者の視点が重要なのである(KING OF PRISMを見てください)。

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 さて、道路を渡って同志社女子大学に隣接するエリアへ進もう。左手に見えるのが、1920年3月に竣工した啓明館(2007年7月、登録有形文化財指定)。啓明館は同志社の2代目図書館として利用されていた建物で、原敬内閣の高等教育機関拡充政策に基づき、1920年4月の大学令で「大学」に格上げされた同志社のシンボルとなった。細長い前面がハードカバーの背表紙を思わせる。図らずも東京大学総合図書館の外観を思い出してしまった。

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 斜めからのアングルだとハードカバーの背表紙には見えないが、正面から見ると樹木が絶妙に建物の一部を隠して、本のように見えるのだから不思議だ。

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 新島遺品庫。1942年に竣工した資料収蔵庫で、新島襄や同志社関係の資料約6,000点が保管されている(非公開)。「反日」勢力との戦争の只中で、卒業生の寄附によって新島襄の遺品庫が建てられていたことは、新島の理想や精神までも暗闇に閉じ込められて「地下」化されたことを意味するのだろうか。暗い時代における知性のあり方を考えざるを得ない昨今、この遺品庫が響かせるエコーは無視できない。主か、ミカドか。当時の学生や卒業生は何を思ったことだろう。

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ちょっと寄り道 ~京都五山 相国寺~

 さて、ついでに同志社大学今出川キャンパスに隣接する寺院も覗いてみよう。キャンパスの北に広がるこの寺院こそ、臨済宗相国寺派の大本山にして京都五山の第二位に列せられる相国寺(正式名称は萬年山相國承天禅寺)である。

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 相国寺は1382年、室町幕府3代将軍・足利義満(在職1368~94年)により創建され、1386年に整備された京都・関東五山の制で京都五山の第二位に列せられた。有名な鹿苑寺金閣や慈照寺銀閣は相国寺の塔頭寺院(子院、わきでら)であり、まさに義満の権力を象徴する臨済宗寺院と言えよう。

 ところで、臨済宗は俗に「鎌倉新仏教」と総称される諸宗派の一つである。「鎌倉新仏教」は高度な学問を修めることを要求する顕教(南都六宗が有名)や、世俗から遠ざかり苛酷な修行に明け暮れる密教(天台宗や真言宗)に対する改革運動として理解することができる。易行・選択・専修というキーワードは、エリート主義に陥っていた仏教を民衆の手に取り戻そうという文脈の中で登場するものだ。従って、念仏や題目を唱えれば救われる、それだけやればよい、といった浄土宗・浄土真宗・日蓮宗の教えは権力側(や旧仏教側)から危険視され、しばしば弾圧を受けることになった*4

 それに対して、武家政権と結びつくことで体制派の宗派となったのが禅宗、特に臨済宗であった。禅の精神が武士の心を捉えたと見ることもできようが、いっそう重要なのは禅僧が中国との交流の窓口となっていた事実である。中国の先進的な文物を「いいとこどり」するために禅宗が利用されたという色彩は濃いと言わざるを得まい。特に義満にとっては、自身の権力正統化のために中国の権威が不可欠であったと考えられる。後醍醐の「異形の王権」(網野善彦)が終わりを告げ、天皇と将軍(源氏)という二つの圧倒的な貴種の双方が地に堕ちたことで、日本の政治権力は正統性を喪失した。義満が天皇から任命される将軍職にとどまらず、中華皇帝から「日本国王」に冊封されたという事実が、南北朝の動乱をリアルに伝えているのではないか……などと素人ながらに考えている。

 

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 前振りはこれくらいにして、旅行記に戻ろう。相国寺はたびたび火災で焼失したが、豊臣秀頼の寄進により1605年に再建された法堂はっとうは現存している。相国寺の法堂は本邦に現存する最古の法堂として重要文化財に指定されている。この日は料金を支払って内見可能だったので、私も見学してきた。内部は撮影禁止のため写真は撮っていないが、陽の光が殆ど入らない静謐な暗がりは何ともありがたかった(俗物感)。

 

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 法堂の入口から外の様子(方丈側)を撮影。

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 方丈から見る石庭。グラウンド整備直後の野球場を思い出してしまった。

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 方丈杉戸絵(白象図)。

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 方丈裏手に広がる庭園。快晴ならもっと美しかったことだろう。

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 方丈の化粧室近くにあった小さな石庭。ミステリーサークルではない。

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おわりに

 先日、以下の記事を読む機会があった。

gendai.ismedia.jp

 内容はともかく、本邦においてキリスト教徒がマイノリティであることは疑いない。そして、マイノリティに対する加害や迫害が激化するのは決まって戦時中である。先日とある読書会で年長者から伺ったが、アジア太平洋戦争が激化する中、上智大学の教員や学生は「御真影への最敬礼や万歳奉祝は棄教にならないのか」という困難な問題に突き当たっていた。御真影に対する儀礼が「習俗」ならば偶像崇拝には当たらないため、これが「習俗」なのかという議論がなされ、教皇庁への照会まで行われたようだが、教皇庁は終戦まで沈黙を守ったという。

 同志社も宗派こそ違えど、上智同様にキリスト教主義に基づく教育機関であり、この手の問題は程度の差こそあれ生じていたのではないだろうか。ここで、件の新島遺品庫が1942年に建てられたことを思うにつけても、このプロジェクトは同志社における面従腹背、ある種のサボタージュであったのではないかと、根拠のない想像が先走ってやまない。そして、同志社が悪名高いレイシストを輩出することになってしまったのも、建学の精神まで「遺品」として仕舞い込んだからではないか、と部外者は勝手なことを思うわけである。食堂で普通の大学生が普通に就活の話をしているのを聞きながら、私は同志社について邪推している自分が、とても浮いた存在に感じられたのだった。

Appendix

 「カレーライスの容器は丼鉢で提供しております」。なかなか珍しい試みである。地味に一番の驚きはこの告知を目にしたときだったかもしれない。

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*1: https://www.doshisha.ac.jp/information/history/neesima/neesima.htmlを参照。

*2:以下、同志社大学今出川キャンパスの構内図はこちらを参照されたい(PDF注意)。

*3:以下、同キャンパスの建物の説明にあたっては、こちらの建物紹介を参照。

*4:特に親鸞の悪人正機説(善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや)は人間(一般民衆)の弱さを正面から認める人間観であり、近代フランスのジャンセニスムと比較されることもある。救われるために自助努力を要求しない教えは、多くの場合権力側から忌避されるものである(現代でも自称エリート達は生活保護叩きに余念がない)。浄土真宗による加賀の一向一揆や日蓮宗による天文法華の乱を念頭に置かれたいが、こうした擬似的なデモクラシー構造は強権的な権力側が最も恐れるものである。織田信長が比叡山延暦寺と石山本願寺を滅ぼしたのも、垂直対水平の対立から理解できるのではないだろうか。