蛮族の本懐

Ne quid nimisというモットーに抗うための試み。

デスマーチからはじまる郊外狂想曲 前奏に代えて ~千葉県松戸市 戸定が丘歴史公園~

はじめに

 先週の土曜日(2018年6月2日)、TVアニメ『デスマーチからはじまる異世界狂想曲』スペシャルイベント「デスマーチからはじまる郊外狂想曲」に参加するため、ちばけんま……もとい千葉県松戸市に行ってきた。JR常磐線・松戸駅で降車するのは初めてだったが、駅舎を出ての第一印象は常磐線・柏駅周辺に似ているというもの(鶏が先か、卵が先か)。細長い空中回廊が雑居ビルを貫通して伸びていき、歩道橋と繋がるという見晴らしの悪さと圧迫感が、都市計画なる四字熟語の不在すら感じさせた。

 さて、今回のイベント会場は松戸市民会館。松戸駅から徒歩10分、住宅街の中に埋もれたこの無機質な建物を見つける途中で、戸定歴史館へ誘導する標識が目に入った。昼の部開演の14:30まで1時間ほど時間を潰す必要があった私は、前知識ゼロのまま、何気なしに戸定歴史館へと足を運ぶことを決めたのだった。

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戸定が丘歴史公園

 結論から述べると、戸定歴史館の突発訪問は「アタリ」だった。戸定歴史館は日本の歴史公園100選(また新たな100選の存在を知ってしまった……)に選ばれた戸定が丘歴史公園の一角に佇む歴史館で、戸定邸(後述)および徳川慶喜・昭武兄弟に関する企画展を開催している施設だ。蒸し暑い昼下がり、高台の公園へ向かう最後の上り坂を歩いていると、汗で肌着がしっとりと湿ってしまった。

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 戸定が丘歴史公園は、かつて70,000㎡を超えていた戸定邸の敷地のうち、三分の一を歴史公園として整備したものだ。戸定邸は、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜(1837~1913年)の弟である昭武(最後の水戸藩主。1853~1910年)の邸宅で、唯一公開されている徳川家の邸宅である(重要文化財指定)。1884年4月に座敷開きが行われ、1890年に庭園が完成して今に至っている。

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 茅葺門をくぐり、さっそく公園の敷地内へ。

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 茅葺門から進んでいくと道が二又に別れており、左手に進むと歴史館、右手に進むと戸定邸および庭園に辿り着く。先に歴史館で共通券(320円)を購入し、戸定邸や庭園の昔の写真を楽しみ、物販コーナーで何点か資料を入手してから、戸定邸をスルーして庭園へ向かった(美味しいものは最後に食べたい)。

旧東屋庭園

 庭園と一口に言っても、公園の敷地内にはいくつかの庭園が隣接して広がっている。最初に辿り着くのが旧東屋庭園だ。

 この庭園は戦後間もない昭和20年代に徳川家の手を離れ、その後福島県学生寮が建設されたことで一度消滅している。2013年に松戸市がこの土地を買い戻し、2016年から当時の写真などをもとに復元工事が行われた。

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 この洋風庭園の復元工事が完了したのは今年の3月で、一般公開が始まったのは6月1日だというから驚いた(関連記事を参照)。前知識ゼロで訪問したスポットが「できたてホヤホヤ」なのは何故か嬉しい。

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 展望台からは、常磐線のレールと松戸市街を見渡すことができる。かつて富士山・江戸川の眺望や花見を楽しむ場所として利用されていた庭園は新たな景観とともに甦った。ふと気がつくと、外国人のランナーが庭園の舗道を走っていた。この光景を見て、私は庭園が新たな生を刻み始めたことを実感した。こうしたreviseもまた、歴史の奔流に飲み込まれていくのだろう。

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梅園

 開放的な旧東屋庭園の奥に、日陰が涼しい梅園が広がっている。梅の季節ではないので特筆すべき点はないが、汗が引くまでのんびりと過ごすには最適のスポットであった。陳腐な表現をすれば、「また来たいものである」。

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戸定邸および旧徳川昭武庭園

 梅園を一周して戸定邸の玄関口へ戻ってきた。明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物として、重要文化財に指定されている。

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 玄関から上がって左手、使者の間へ続く廊下。

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 使者の間から見える書院造庭園(旧徳川昭武庭園)。マルハナバチがガラスに向かって突進する羽音が心地よく、ガイドの案内が耳に入らないほどであった。

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 内蔵棟への出入口。

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 現在は襖がないため、客間および二の間が繋がっている。圧巻の広さ。

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 名勝に指定された書院造庭園(旧徳川昭武庭園)。歴史館側で定めた「戸定の日」には、実際に庭園に降りて散策することができるようだ。

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 入側から庭園を眺めていると、走り回る子供の幻影を錯視した(伝われ)。

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 戸定邸からも松戸市街が垣間見える。高台に建っていることがよく分かる。

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 家族が暮らす離座敷棟への渡廊下。すれ違うのがやっとの幅員であった。

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おわりに

 水戸藩主・徳川斉昭の十八男にして、慶喜の異母弟、昭武。私はこれまで昭武という人物を意識することは全くなかったが、偶然に導かれて戸定歴史館を訪れたことで大変勉強になった。歴史館で入手した「徳川昭武のヨーロッパ体験」と題されたパンフレットを読み、昭武が幕末~明治維新期におけるキーパースンであったことを知った。私が特に興味を引かれたのは以下の点だ。

  • 1867年1月、昭武はフランスからの巨額借款を得るべく、将軍名代としてパリ万国博覧会へ派遣された。昭武には、後に江藤新平司法卿のもとでフランス諸法典の翻訳事業を大成する箕作麟祥や、後に日本資本主義の父として実業界で成功を収める渋沢栄一が随行していた。
  • 昭武はイギリスの新聞で“Prince Tokugawa”として紹介されるなど、西欧諸国から次期将軍候補と目されていた。
  • 1867年11月、昭武は帰国。帰国後は明治天皇に臣従する姿勢を見せ、自身を指導者に仰いだ榎本武揚を勅命で討つべく、箱館戦争に従軍した。

次期将軍候補・昭武のもとに参集した人々が、徳川時代の終焉とともに飛び散っていく様はダイナミックで美しい。昭武と関わりを持てる人間は当時のエリート層なのだから、その後の活躍も当然といえば当然かもしれないが、昭武が29歳で隠居となる一方で、昭武の参謀たちが栄達を遂げるのは好対照と言わざるを得ない。まさに1867年、歴史の表と裏が入れ替わったのである。しかし、反転が起こっても「表裏一体」ではあったのだろう。「明治150年」なる国策プロパガンダは、明治維新が徳川時代との連続性を帯びているという点を隠蔽しようとしている。幕末~明治維新期に活躍した多くの人物は、徳川時代に既に活躍の資格を与えられた一握りの者たちなのだ、ということを看過してはならないだろう。つまり、私の見解としては、明治維新=絶対主義を打破した市民革命と性格づけるのは困難だ。歴史の表と裏が入れ替わったとしても、上と下が入れ替わったわけではない、ということである。寡頭支配が維持されたことがそんなに喜ばしいのか、私には甚だ疑問である。美しい庭園を備えた広大な敷地を市民が散策できるようになったことの歴史的意義を再考すべきではなかろうか。

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