蛮族の本懐

Ne quid nimisというモットーに抗うための試み。

異形とポリティカル・コレクトネス(1):綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』について

はじめに 批評家・綿野恵太の挑戦と限界

 最近、人の薦めで綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社、2019年)治部れんげ『炎上しない企業情報発信:ジェンダーはビジネスの新教養である』(日本経済新聞出版社、2018年)を読んだ。

 治部の啓蒙書は会社の上司に薦められて読んだのだが、残念ながらそれほど面白い本ではなかった。ルミネ、資生堂、キリンビバレッジ、サントリー、宮城県、ユニ・チャームなど、近年の日本国内における「ジェンダー炎上」の事例およびその問題点が簡潔に整理されており、海外の「ジェンダー炎上」事例も何例か紹介されているため、informativeではあったが、いかんせん筆致が退屈で刺激に欠けた。綿野の話題書を副読本として、物足りなかった点、注意を要する点を指摘しておきたい。(以下、赤字は引用箇所を示す)

 第一に、治部は「『女性に関する表現は男性の自分には発言資格がないのでは……』と遠慮せず、男女ともに率直に意見を言い合える組織風土を作ることが大切だ」と述べるが*1、これは綿野が言うところのシティズンシップの論理である。綿野は反差別言説を支える論理がアイデンティティの論理からシティズンシップの論理に移行し、誰もが(つまり、当事者でなくとも)差別を批判することができる時代が到来したことを指摘し、その移行過程を(やや駆け足ながらも)追いかける。そして、シティズンシップの論理が「ブルジョワ道徳」とみなされる傾向にあり、マジョリティが悪用するアイデンティティ・ポリティクスから逆襲を受けている現状を明らかにしている。治部はシティズンシップの論理が所謂ホワイト企業にしか通用しない可能性や分断を煽る可能性を明示していないが、読者が記述を真に受けることで陰湿な抵抗に遭うリスクについてどのように考えているのだろうか。企業コンサルティングを生業としていて、ジェンダー視点が「コーポレートガバナンス・コードや国際会計基準(IFRS)と同様、グローバル企業のマネジメントに必要なルールなのである」とうそぶいているというのに*2、自身の開示姿勢には疑問が残る。

 第二に、治部は「たとえ発信側に悪意がなくても、受け手が不快感や差別を感じ取れば社会的に許容されず、広範囲から批判を受け、企業イメージも悪化し、製品ブランドが毀損してしまう……ジェンダー対応を誤ることは企業にとって新たなリスクとなった」と既成事実のように述べたうえで*3「表現にジェンダー視点を採り入れる必要性について話をすると、『表現の自由が脅かされる』という反論を受けることがある。確かに『正しさ』のみを武器に、すべての表現をチェックするのは現実的ではない」と留保をつけつつ*4「批判されても、これは発信する価値がある、という深い意図や信念をもとになされる表現こそが、本当にクリエイティブと言えるのではないか」と主張している*5。流石に治部もこの箇所は慎重な筆運びであるが、綿野が北田暁大から引用する「とんでもない責任のインフレ」を、動かせないリアリティとして治部が捉えているのは危うい。

 綿野は行為者の意図や予見可能性ではなく、行為の結果を中心とする責任理論の転換がマジョリティによるアイデンティティ・ポリティクスを勢いづかせている可能性を指摘している。対して治部は「たとえ発信側に悪意がなくても、受け手が不快感や差別を感じ取れば社会的に許容されず」とさらりと書いてのけるが*6、北田の言う「強い責任理論」が人口に膾炙しているという認識なのだろうか。「強い責任理論」(敢えて俗流に言えば「正義の暴走」「行き過ぎたポリコレ」なるもの)に息苦しさを覚えている保守派や「炎上」自体を娯楽として消費する悪趣味な者もいるという事実に目を配らず、巧妙で陰湿な差別者やハラッサーに足元をすくわれるのは勿体ない。彼を知り己を知れば百戦殆うからず。この点については、第三点として改めて触れる。

 第三に、治部はバックラッシュや嫌がらせの影響を軽く見積もりすぎているきらいがある。治部は「真正面から、性暴力反対や制度改正を訴える活動が、国際的な広告祭で表彰されている事実が、日本のビジネス社会ではほとんど知られていないのではないか。変革の提案が求められる時代に、変えるべき現実を追認し拡大再生産するようなCMで炎上するのは、周回遅れの発想と言える」と一蹴したうえで*7「今、世界で評価される表現は、社会問題への取り組みを訴えるものになってきた。短期的な販売促進ではなく、社会を良くすることが長期的な経済価値につながる、という価値観は年々、色濃くなっている……こうした発想がグローバルな企業活動においては、欠かせなくなってきた」と述べているが*8、典型的な「出羽守」論法であり、論の運び方としてあまりに隙が大きい。この記述で溜飲を下げる読者も「グローバル・スタンダード」信仰に傾倒しており、やや危険に思える。global(地球規模)とinternational(国際的)の違いを再考したほうが良い*9

 さらに、治部は「女性の地位向上を求める人と、それに対して反発する人――同じ構図は現代日本でも見られる。進歩とバックラッシュの繰り返しは、どんな社会にも共通して起きる現象だ。大事なのは、企業は意思決定をする際、変化の方向性を見誤らないことである」とバックラッシュを一般化しているが*10、それぞれの時代・社会背景を無視した「社会あるところ遍く差別あり」式の平準化は危険である。綿野が明らかにしたように、「ポリティカル・コレクトネス」に対する批判の論拠は時代・社会背景に左右されて変遷を遂げてきた。特に近年では、バックラッシュ側がアイデンティティの論理を巧妙に簒奪して無効化しようとしているという点は注意を要する*11。バックラッシュ側を単に進歩的でない連中とみなすだけでは、彼らの戦略にまんまと乗せられてしまうことになる。進歩的か時代錯誤かという二択が問題なのではなく、思想信条こそが問題なのである*12。ビジネスパースン向けの「意識の高い」次元に甘んじることなく、是非とも治部には、思想に関する歴史的な議論に分け入った厚みのある論考を執筆してほしいものだ*13

 このように治部の『炎上しない企業情報発信』は種々の点で物足りなかったが、同時期に読んだ綿野の『「差別はいけない」とみんないうけれど。』は(あまりに截然としすぎてはいるものの)アイデンティティ対シティズンシップという整理の枠組みを一貫して提案するとともに、黙説法というレトリックに着目した野心的な著作であり、こちらは興味深く読んだ。さて、ここまで綿野を援用しながら治部を批判してきたが、私は綿野のスポークスマンではないので、綿野の著作の問題点も明らかにしなければフェアではあるまい。以下、綿野の著作の限界を2点に絞って述べておきたい。

 第一に、綿野はアイデンティティ対シティズンシップという「克服できない対立」の構図を、カール・シュミットの『現代議会主義の精神史的状況』から構成している。綿野は幾度となく「カール・シュミットが指摘するように」という表現を用いて、多様性を求める自由主義と同質性を志向する民主主義の相克を強調するが、シュミットの来歴に言及しないまま、その他の研究者や批評家と同列にシュミットを引用するナイーブな姿勢は危ういと言わざるを得ない*14。すぐ後で触れるように、シュミットは明らかに「キワモノ」であり、読者に注意を促すことなく、この劇薬を紛れ込ませるのは、綿野に隠された意図があるのではないかとの邪推を生む原因となるだろう。

 シュミットについては、フォルカー・ヴァイス(長谷川晴生訳)『ドイツの新右翼』(新泉社、2019年)に収められたドイツ文学者・長谷川晴生(ヴァイスの翻訳者)の解説が簡潔にまとまっているので、紹介しておきたい。長谷川はアルミン・モーラーとカール・シュミットについて、「この二人こそ、ドイツの新右翼の理論的支柱であり、本書の二大主人公といってもよい。ドイツの新右翼の人々は、モーラーの整理した戦間期の『保守革命』の後継者として自分を位置づけ、シュミットの構想した国際的秩序に向けて国家を動かそうとしている」と端的に整理している*15。シュミットの構想した国際的秩序とは「大圏域」(Großraum)思想のことである。「大圏域」とは「ある国家が自国および周辺領域を囲い込んで形成した勢力範囲のことであり、『大圏域』の中核となる国家は、その『大圏域』内に対して影響を及ぼせる反面、西欧をはじめとする他国……からの鑑賞を国際法的に遮断しうるとされる」*16。シュミットは西欧の自由主義と民主主義や国際連盟といった「普遍主義」(Universalismus)を遮断するための秩序として「大圏域」を提唱し、「ライヒ」としてのドイツがヨーロッパを政治的に指導していく体制を夢想した*17。長谷川は言う。「現代の新右翼にとっては、なによりも人権の理念やヨーロッパ連合が、排除すべき『普遍主義』となっているだけの差異にすぎない」*18。より直截にヴァイスに言わせれば、「シュミットは、文中のいたるところにアドルフ・ヒトラーへの見え透いた暗示を挿入しつつ、この新たな国際法という目的地への道筋の、すでに半ばまで来ている、と言っている」ということになる*19

 シュミットは「全体主義国家と闘うための国際的制裁を全否定するという点で、権威主義の支配を擁護する者すべての先駆者」であり*20「新右翼を含むシュミット学派は、人権の闘士を不倶戴天の敵と見なしてきた」のだが*21、ヴァイスが言うように、「オスヴァルト・シュペングラー、カール・シュミット、エルンスト・ユンガーらの著作に触れることは、知的刺激に富んだ読書体験である」こともまた事実であろう*22。私もシュミットの来歴について注記を付した上で、彼の著作を思想史的関心から読むことを否定はしない。ただ、綿野はシュミットに対する明確な態度決定を欠くために、アイデンティティ対シティズンシップという構図全体が信用に値しないものとの評価を受けかねない状態に陥っている。この点が『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の致命的な限界である。

 綿野がかくも近視眼的になった背景にあるのは、文芸評論家・絓秀実の呪縛だろう。綿野はまえがきの註の中で、絓秀実『「超」言葉狩り宣言』(太田出版、1994年)「『自由主義』と『民主主義』の観点から差別を読み解いた先駆的な著作」と評価しているが*23、まさにこの『「超」言葉狩り宣言』に収められた一篇の論考こそ、シュミットを援用して「差別論における二つの立場」を主張したものであった。絓は次のように述べる。

 差別を論じる場合、大きく言って二つの相異なる立場が存在します。この二つの立場とは、同一化と差異化、ナショナリズムとインターナショナリズム、民主主義と自由主義というふうにさしあたり区別しうるでしょうが、このような異なる立場をいっしょくたにしてきたところに、今日にいたるまでの差別論の混乱があるのみならず、主観的に反差別運動を担おうとする人たちの間に、混乱――それは、逆に差別を誘発する――さえ生み出しつつあるように思われます。そして、われわれが接する差別批判の多くは、同一性、ナショナリズム、民主主義に拠る言説にほかなりません(カール・シュミットが言うように、民主主義と自由主義は本質的に対立するものです)*24。(強調はブログ管理人による)

絓の論考が20年以上前に執筆されたものであること、部落解放同盟の欺瞞(在日朝鮮人・中国人差別)を批判する目的で書かれたものであること、シュミットについて註の中で「ナチス初期に『具体的秩序思想』をもってナチを正当化し、戦後公職を追われた」と補足していることに鑑みて、絓のシュミット援用は歴史的な記念碑と言いうるかもしれないが、綿野が2019年になってシュミットを振り回すのはいただけない。シュミットが綿野と絓を結びつける「かすがい」になっているのは分かるが、むしろシュミットの提示した二項対立が現実化していることの切迫性(端的に言えばヤバさ)を批判する論陣を張ってもよかったのではないかと思われ、この中途半端さが『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の屋台骨を揺るがしている。これは明らかに綿野の過失である。

 第二に、綿野は『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の第7章「天皇制の道徳について」の中で、世界的な君主のリベラル化に触れつつ、「民主主義と自由主義がともに持つ欠点、ひいては自由主義と民主主義の対立そのものを『調整』し『超越』する存在として、君主制は位置づけられる」と述べる*25。そして、本邦については「天皇制は『決断』でなく『調整』によって、自由主義と民主主義の対立を抑制しようとする。天皇制のリベラル化とは、まさに天皇自身がリベラル・デモクラシー(自由主義と民主主義の「結婚」)の象徴として、その「結婚」の破綻を回避しようとする姿にほかならない」と整理するが*26、ここには綿野自身が批判する黙説法が使われてはいないだろうか。綿野は黙説法について、「あえて言い落とすことで、聞き手にその内容を推測させ、十分に差別的な雰囲気を醸し出すことに成功する。そして、いざ責任を追求されたときは、そんなことはいっていないと言い逃れできる。触れてはいけないタブーとして差別を焦点化し、演出し、責任逃れもできるという便利なレトリック」と説明している*27。勿論、前述の箇所で綿野が差別的な演出をしているわけではないが、天皇制に対する明確な態度決定を避けたために、天皇制擁護とも天皇制批判ともとれる玉虫色の記述になっているのは否めない。

 さらに言えば、綿野は天皇(敷衍すれば皇族)がリベラル・デモクラシーの「調整」役として不適格になった場合について一切触れておらず、この点も不満が残る。皇族は基本的人権を剥奪された存在であるがゆえに、却って日本国憲法から解放された存在でもある。天皇制のリベラル化とは、天皇制を延命・温存するための場当たりの施策でしかない。宮内庁は皇族を完全に従属させることに(意図的かどうか分からないが)失敗しており、実質的に天皇を押し止めるものは何もないのだから、天皇がリベラルでいられるのも自律が機能する限りの話なのである。リベラル・デモクラシーに敵対的な天皇、または神経衰弱の天皇が即位したら、どのような事態を招くだろうか。それでも国民が天皇制を支持するのかは分からないが、このような脆弱性を持った皮肉なメリトクラシーを手放しに支持することは、やはりできないのではないだろうか。だからこそ、天皇制のifとして、明治天皇の玄孫、「金ねンだわ」の王子、そして「一條家の末裔」にして「メディアと最高裁の支配層」を観察することは学びが大きい(冗談ではなく)。綿野が近い将来、言い落とさない天皇論に挑み、本書を補完する言説を提供してくれることに期待したい。

 さて、私がここまで綿野の著作について縷々述べてきたのは、「ポリティカル・コレクトネス」に言及した過去の自分の文章(声優アニメリヴュー)を再点検する道具立てを紹介するためである。次回からは、2017年12月にコミックマーケット93で頒布した『声ヲタグランプリ』18号所収の『セントールの悩み』評について、綿野のプリズムを通じた読み直しを行い、内容のアップデートと補足を図る。そして、「異形」(または「人外」)という表象の可能性と異常性について、整理を試みることにする。

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*1:治部れんげ『炎上しない企業情報発信:ジェンダーはビジネスの新教養である』日本経済新聞出版社、2018年、62頁。

*2:同書、7頁。

*3:同書、23頁。

*4:同書、75頁。

*5:同書、76頁。

*6:同書、23頁。

*7:同書、119頁。

*8:同書、120頁。

*9:例えば、インターネットを通じてあらゆる国のドメインのウェブサイトにアクセスして情報を得たり、SNSを通じて世界中の人々とコミュニケーションを取ったりすることが可能になったのはglobalだと言える。他方で、多国籍企業が複数の国を股にかけたビジネスを展開したり、一国の職人が様々な国の人間から発注を受けたりするのはinternationalと言うべきである。我々は無国籍という意味でのコスモポリタンを想像することができない程度に、国籍(nationality)という比較的新しい概念に縛られてしまっている。「グローバル人材」や「グローバル・スタンダード」が持て囃されるようになってどのくらい経過したのか調べてはいないが、本来は人工衛星やインターネットといった技術の次元でしか実現できないglobalという言葉を、internationalまたはmulticulturalの類義語として使用するのをやめるべきではないだろうか。

*10:治部『炎上しない企業情報発信』、172頁。

*11:この点に限らず、「1968年」以来、右翼は左翼の手法に学んできた。例えば、グラムシの「陣地戦」の思想を文化領域における「メタ政治」に転用するなどして伸長してきたドイツの新右翼については、フォルカー・ヴァイス(長谷川晴生訳)『ドイツの新右翼』新泉社、2019年を参照。

*12:なお、問題は思想信条だけでもない。綿野は近年の行動経済学や進化心理学の知見を紹介しつつ、差別がエビデンス主義と結託して「合理的」との装いを手に入れつつある現状に警鐘を鳴らす。リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン、スティーブン・ピンカーといった研究者は、理性的で自律的な個人というモデルが幻想に過ぎないという「不都合な真実」をほのめかし、アーキテクチャ信仰への道を開く。そこから暗黒啓蒙や新反動主義まではあと一歩であろう。木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義:現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』星海社新書、2019年も参照。

*13:とはいえ、本書の中で歴史的な議論が皆無なわけではない。それどころか、本書の後半部はディズニー・プリンセスの歴史的変遷を追う分析となっており、アニメ批評として興味深い点も少なくない(これは治部の修士課程時代のワークショップレポートを再構成したものである)。しかし、この学術研究パートが、前半部の少々鼻息の荒いエンパワーメントと不整合を起こしている感は否めない。さらに、治部は「ビジネスパーソンには、伝統的なプリンセス物語と『ソフィア』を見比べて楽しみながら、ジェンダー視点をビジネスに取り込む発想法をつかんでほしい」(治部『炎上しない企業情報発信』、205頁)と言うが、この一文を読んで、どれだけの人が視聴意欲を掻き立てられるのか、私には分からない。ちなみに私はディズニーアニメに特別な思い入れがないので乗り切れなかったが、皆さんはいかがだろうか。治部は自身のディズニー愛を相対化すべきでもある。

*14:シュミットの初出箇所では、「この整理は、ドイツの法学者カール・シュミット(1888-1985)の理論によっている」とだけ書いてあり、特に知識のない読者がここで立ち止まることは間違いなくないだろう。綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』平凡社、2019年、18頁。

*15:長谷川晴生「もう一つのドイツ:保守革命から新右翼へ」フォルカー・ヴァイス(長谷川晴生訳)『ドイツの新右翼』新泉社、2019年、433頁。

*16:同解説、441頁。

*17:同解説、442頁。

*18:同解説、442頁。

*19:ヴァイス『ドイツの新右翼』、302頁。

*20:同書、308頁。

*21:同書、318頁。

*22:同書、354頁。

*23:綿野『「差別はいけない」とみんないうけれど。』、18頁、註5。

*24:絓秀実「差別とナショナリズム:同一化の装置としての反差別運動と国語教育」同『「超」言葉狩り宣言』太田出版、1994年、134頁。

*25:綿野『「差別はいけない」とみんないうけれど。』、291頁。

*26:同書、305頁。

*27:同書、191頁。