蛮族の本懐

Ne quid nimisというモットーに抗うための試み。

異形とポリティカル・コレクトネス(2):『セントールの悩み』評に関する自己批判およびアップデートの試み(1)

前回のおさらい

rasiel9713.hatenablog.com

 前回は、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社、2019年)の書評を執筆したが、今回はそれを前提として、標題の「異形とポリティカル・コレクトネス」の問題に入っていく。とはいえ、以下で直截的に扱うのはハンセン病や水俣病といった疾病に対する差別の問題ではなく、日本のアニメ・漫画における表象の問題である。その入口として、私が明示的に「ポリティカル・コレクトネス」という単語を初めて用いた劇評、すなわち『声ヲタグランプリ』18号(2017年12月)所収の『セントールの悩み』評を、綿野のプリズムを通じて読み直し、自己批判した上で内容のアップデートを行う。

 まずは、約2年前に執筆した劇評をそのまま掲載するので、お読みいただきたい。

『セントールの悩み』について(2017年12月寄稿)

 声優に「これは深い作品だ」と錯覚させるアニメがある。人はそれを「こけおどし」と呼ぶ。
 本作も「こけおどし」には違いないだろう。ポリティカル・コレクトネスは当事者の救済と不可分であり、それを抜きにした構造的な反差別言説など何の意味もない。「#MeToo」はあくまで「わたし」の問題から始まる帰納的アプローチなのだが、差別主義者はこれを演繹的アプローチと故意に誤読することで嫌がらせをふっかける。また、差別主義者は永遠の相対化という冷笑(cynicism)に持ち込むことにも長けている。こうして「助けて」という小さく切実な声は握り潰される。
 だから「あべこべの世界」(mundus inversus)を描くにせよ、ディストピアを描くにせよ、重要なのは歴史認識に支えられた「距離感」(sense of distance)なのである。個々の事例に対する敬意を欠いた物語世界の創造など、作家の思い上がりも甚だしい。ディストピア文学の泰斗と目されるオーウェルも、このように述べている。「疑いなく西洋文明のきわだった特徴のひとつであった知的自由というものに、なにがしかの意味があるとするならば、それは、社会のほかの人びとを明らかに害するものでないかぎり、みずから真実であると信じることを言い、出版する権利を万人が有するということなのである」*1。『キノの旅』や本作の原作者に「公の秩序」(ordre public)に対する意識があるか? こう問わねばならない。
 とはいえ、評者は声優アニメとしての本作を腐すつもりはない。『グラスリップ』の深川芹亜、『ひめゴト』『温泉幼精ハコネちゃん』の桑原由気、『戦国コレクション』の白石晴香。この布陣は玄人好みだが、さかしらで偏屈な作風と相俟って、本作を唯一無二の渋い声優アニメに仕立て上げた。本作は「間」が多い作品である。プライベートな仲の良さ/悪さでごまかしの効く掛け合いと異なり、「間」は一瞬の緩みも許されない。「間」を気まずく感じさせず、NGが出ない程度に日常のワンシーンの一部とするためには、高い技術と信頼関係が不可欠である。三人娘の日常に耳を傾けて欲しい。「演技」なるものが、個に発し個に帰るように見えて実は、声優アニメという場で動的に展開するプロセスであることを再確認できるはずだ。
 また、本作は綾瀬有、鎌倉有那という新時代の日ナレ声優を発掘した点でも功績が大きい。過熱感のあった早見沙織バブルが弾け、「今クールの早見沙織はどんなものかな」程度に落ち着いて判断できるようになったのは幸か不幸か。早見沙織に飢えた声ヲタは、残念ながらもう居ない。そんなゴルディロックス相場の中で、リスクオンモードの声ヲタが向かう先はどこか。綾瀬有と鎌倉有那である。
 綾瀬有は「声って何だろう?」という原初的な問いに声ヲタを立ち返らせた。我々が「美人声」だの「巨乳声」だの評する時、そこには必ず視覚と社会通念が前提されている。蛇頭のヒロイン(マスコットキャラクターではない!)はこうした諸前提を完全に破壊した。『神速のゲノセクト』で諸星すみれ(水ゲノセクト)が投げかけた問題が4年越しに顕在化したのである。上品な箱入り娘で、好奇心旺盛で、時に天然で……。そんなケツァルコアトル・サスサススールはどんな声なのか? スーちゃんの人格に迫る構成的な作業がいかに入念に行われたか、それは綾瀬有が選ばれたことから明らかだろう。「よろしく」の一声で全てをわからされたあの瞬間、声に殴られて立ち尽くした原初の体験を思い出した声ヲタは少なくないはずだ。これを敏感な聴覚と精神で聴ける若者は幸せである。綾瀬有は多くの人間を声ヲタ危機へと引きずり込んだ。次の危機はさくたけ氏のキャロラインに声が当てられるまで待たねばなるまい*2
 鎌倉有那は「凜」の再定義を行った。この世で最も力強く、無休(時に無給)で働いているのは誰なのか、種﨑敦美の誰もが認める愛くるしさにほだされずに、今一度考えてみることだ。しかし、委員長・御魂真奈美は全てを引き受けるにはあまりに幼い。否、人間誰しも一人で全てを引き受けることなど出来はしないのだろう。畢竟、「凜」とは自身の克服できぬ幼児性とそれを封殺する社会的要請との葛藤である。適切な依存先を増やすことがこの葛藤を安定化させ、強靭な美しさへと昇華させる。最終話の腕相撲大会は、委員長の歯車がクラスメートと噛み合った暗示だったのかもしれない。鎌倉有那の透徹した美しさを最後の最後まで楽しめるとは、なかなかに粋な作りである。
 「人外」という政治的に問題の少なくないジャンルが声優アニメの花園となっているのは皮肉ではあるが、このジャンルが批判を受けつつ益々の発展を遂げるよう、一ファンとして期待せずにはいられない。本稿をエールに代える。

centaur-anime.com

劇評再読 綿野のプリズムを通じて/綿野を乗り越えて

 さて、この劇評を執筆した時点では、アイデンティティ対シティズンシップなどという構図は全くもって私の思考回路に組み込まれていなかった。それでは、綿野の著書を読み終えた現在、私の主張はアイデンティティの論理/シティズンシップの論理、いずれ寄りだったと整理できるのだろうか。この点について考えていきたい。

 まず、冒頭で掲げられるのは、「ポリティカル・コレクトネスは当事者の救済と不可分であり、それを抜きにした構造的な反差別言説など何の意味もない」という主張である。これは一見すると、差別を受けた当事者こそが差別を批判する資格を持つ、とするアイデンティティの論理に近いように思える。アイデンティティの論理について、綿野は次のように整理している。

 「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」という有名な言葉がある。差別は差別された者にしかわからない、という意味だ。いくら想像力を働かせたとしても、踏まれた他者の痛みは直接体験できない。だから、当事者(被差別者)以外の人間が批判の声をあげたとしても、当事者にたいして引け目を感じざるをえないはずだ。痛みを直接体験できない人間は正しく差別=足の痛みを理解しているのか、みずからに問いかけ続けるしかないからである*3

 次に、劇評の前述箇所に続くのは、「『#MeToo』はあくまで『わたし』の問題から始まる帰納的アプローチなのだが、差別主義者はこれを演繹的アプローチと故意に誤読することで嫌がらせをふっかける……こうして『助けて』という小さく切実な声は握り潰される」という記述だが、仮にこの「帰納的アプローチ」をアイデンティティの論理と整理すれば、「演繹的アプローチ」はシティズンシップの論理ということになる。ここで私が念頭に置いていたのは、いわゆる「逆差別」の問題であった。「演繹的アプローチと故意に誤読する」というのは、仮想敵を過剰に大きな主語で語ることを指しており、男性差別(という名のミソジニー)、オタク差別(という名の夜郎自大)、日本人差別(という名のレイシズム)など、様々な位相で横行するバックラッシュを頭に浮かべながら、この一文を書いた。綿野に言わせれば、近年のバックラッシュはマジョリティによるアイデンティティ・ポリティクスの簒奪の結果であり、シティズンシップの論理の空虚さを暴こうとするものである、ということになるだろう。従って、当時の私は「帰納的アプローチ」=アイデンティティの論理が簒奪されて無効化されている、という発想こそなかったものの、「演繹的アプローチ」=シティズンシップの論理が逆襲を受けていることを鋭敏に感じ取っていた点で、綿野とは近い問題意識を持っていたと言うべきなのだろう。

 ここまで見てくると、ますます私の主張はアイデンティティの論理に裏打ちされていたように思えてくるが、事はそう単純ではない。「だから『あべこべの世界』……」で始まる第3パラグラフには、いわゆる「表現の自由戦士」批判の意図が込められている。私はヘイトスピーチは表現の自由の埒外に置かれるとの立場を取っており、オーウェルを引いたのは、「社会のほかの人びとを明らかに害するものでないかぎり」という限定句を印象づけるためであった*4。そうすると、この箇所におけるヘイトスピーチ批判は非当事者からのシティズンシップの論理に近いように思える。どうも、前述の劇評では、アイデンティティの論理/シティズンシップの論理の混濁が生じているようだ。

 もちろん、綿野も「アイデンティティとシティズンシップ。このふたつの論理ははっきりと区別されるわけではない。反差別運動においてときには協働し、ときには対立してきた」と留保はつけている*5。私だって、この截然とした二項対立で全てを整理しきれるわけでないことは承知の上である。ここで問わなければならないのは、アイデンティティの論理/シティズンシップの論理の混濁、あるいは架橋を生じさせたのは何だったのかということだ。この問いが、綿野の提示した構図を発展的に解消する契機となることを信じつつ、スベったギャグを自ら解説するような野暮な行為(本エントリ)を続けていこう。

 キーワードは「救済」である。これはremedyの訳語として用いたもので、salvationを意味するものではない。「当事者の救済」とはあくまで法的な次元での救済を念頭に置いている。救済を求めて声を上げるのは、最もベーシックな形態としては、何らかの侵害を受けた/受けつつある本人(当事者)である。そして、この者は請求を行うに際して、何かしらの権原(title)を有している必要はない。より丁寧な言い方をすれば、声を上げる者が請求の根拠となる権原(あるいは権利)を有しているか否か、という予断は排除されなければならない。木庭顕が一般書でも述べているように、「法律家は正しくなくとも緊急に危ないほうを大事にする」のであり、「法の立場というのは最後、正義がどちらにあるか、ということにはほとんど興味を持たない。そうじゃなくて、事は緊急だ、とにかく今ブロックしておかないと……ダメですよという、そういう観点を法というものが持っている」のである*6。こうした法的な次元で議論を進めることで、アイデンティティの論理/シティズンシップの論理が両立する可能性が見えてくる*7

 「当事者」という言葉は、民事訴訟法の教科書では「訴えまたは訴えられることによって、判決の名宛人となる者」と定義されている。ただし、「判決による紛争解決の実効性を確保するために、その効力を第三者に及ぼすこともあるから、判決の効力を受ける者がすべて当事者ではない。訴訟追行にも代理が認められるから、現実に訴訟追行行為をする者が当事者であるとは限らない。また当事者は、訴訟物たる権利義務の帰属主体とはかぎらない」*8。確かに、足を踏まれて痛い思いをしたのは当事者だから、当事者による訴えの提起はアイデンティティの論理に依拠していると言えるのかもしれない。しかし、訴訟追行に際しては法律家の支援を受けることが通例であり(本人訴訟は稀である)、弁護士(訴訟代理人)は当の被害者ではないことがしばしばであるから、訴訟追行行為の代理はシティズンシップの論理に依拠していると言えそうである*9。だから私は、当事者を物理的・金銭的・心理的に、そして何より法的に支援する余地がある以上、「当事者(被差別者)以外の人間が批判の声をあげたとしても、当事者にたいして引け目を感じざるをえないはずだ」とは考えない。法廷(forum)がアイデンティティとシティズンシップを結びつける場となる可能性に、私は賭けたい*10

 法廷において、予断は徹底的に排除されなければならない。木庭に言わせれば、「まずは一定の価値を持った状態について、しっかり保全して、そのあとゆっくりどっちが正しいかを考えましょう」ということになる*11。とはいえ、瀬木比呂志『絶望の裁判所』(講談社現代新書、2014年)を引き合いに出すまでもなく、(特に「リベラル」派から)法廷の腐敗や裁判官の悪辣さについて、まことしやかに言い散らかされている現状に鑑みるに、読者の皆さんには「しっかり保全」などと言っても綺麗事にしか聞こえないかもしれない*12。しかし、綺麗事を叫ぶ者に対して「清濁併せ呑むのが大人の振る舞いだ」と冷笑するヤジが飛ぶ一方で、「不都合な真実」を主張する者に対しては同様のヤジは飛ばないという非対称性を看過してはならない。「清」=綺麗事を潰したいだけの「大人」の主張に対しては、声高に綺麗事をぶつけていこうではないか。私は「しっかり保全」(予断の排除)を原則として引き続き主張していくつもりだ*13。この原則は裁判外では傾聴・共感の姿勢に繋がっていくと考えられる(以下で詳述する)。そして、礼節を重んじた振る舞いは、読者の皆さんの社会的な評価を高めこそすれ、低めることはない。

 傾聴・共感の姿勢とは、何らかの被害(性被害でも企業不正でもあおり運転でも災害でもよい、イメージしやすい題材で考えてみてほしい)について告発・報告がなされた時に、(自称)当事者の言うことをまずは「うん、うん」と受け止める姿勢である。別に「辛かったね、もう大丈夫、私が味方だよ」などと言う必要はない。頭ごなしに否定せず、耳を傾ける姿勢を示せばよい。これが突飛な主張に聞こえるだろうか? (自称)当事者に対して「お前の側にも原因があったのではないか」とか(セカンドレイプに顕著な話法)、「お前の言っていることはどうせ嘘だろう」とか(嘘松認定)、そういうことは普通は言わない。会社、学校、趣味サークル、近所付き合いなど、社会生活の多くの場面において、頭ごなしに否定することは原則的ではない。「そうは言っても世の中は厳しいから、甘ったれたことを言っていても始まらない」といった反論がありそうなので、あらかじめ書いておくが、全ての物事に対して懐疑を徹底できている人間などおらず、あなたもまた「甘ったれ」でしかないということを自覚してほしいと思う。

 2019年7月、ジャスミンゆまがDJ社長のパワハラを告発したのが「釣り」だった件を思い出されたい。あの一件が炎上したのは、当事者の言葉をつい信じてしまうという人間の脆弱性を突いた悪質なドッキリだったからである。仮にあなたが「釣られた」としても、「ねぇ、今どんな気持ちぃ??」という煽りの言葉に悔しいと思う必要はない。

「うそはうそであると見抜ける人でないと難しい」という言葉が金言のように持て囃されるようになって久しいが、ネットリテラシーという名の自己責任が過度に強調された結果、言論空間は明らかに汚染されてしまった。相手は故意に嘘を言っているかもしれず、しかも騙されたほうが悪いという詐欺師の論理が、大手を振って言論空間(特にインターネット)に侵入してきた。こうなると、騙されまいと相手を疑ってかかることが「賢い」やり方となり、原則的なものとなりうる。この「賢い」スタイルは、慰安婦は売春婦であったとか、伊藤詩織は「ハニートラップ」を仕掛けたといった、不誠実でおぞましい主張を打ち出す上でも有効活用されている*14。以上より私が言いたいのは、傾聴・共感の姿勢を欠くということ、「しっかり保全」できないということ、換言すればアイデンティティとシティズンシップを過度に対抗的に描くことは、知性も倫理もかなぐり捨てた歴史修正主義と地続きであるということだ。言論空間の汚染が社会生活にまで浸透しつつあるのをひしひしと感じるが(もはや「ネット右翼」は「ネット」だけの存在ではない)、その中で良識を保つために、「たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと」傾聴・共感の姿勢に価値を見出していきたい*15

 最初の問いに戻ろう。私の主張はアイデンティティの論理/シティズンシップの論理、いずれ寄りだったと整理できるのだろうか。答えはどちらにも振り切れることなく、第三の道を模索していたということになる*16。綿野の著書がほとんど触れることのなかった、法的な次元での議論を進めることで、アイデンティティの論理/シティズンシップの論理に係る対抗関係を発展的に解消し、両立させることはできるように思われる。つまり、私は混濁していたのではなく、別の問題意識に沿った架橋を試みていたのである。ただし、この架橋は一つの可能性の提示にすぎない。今後も議論が進展することを期待しつつ、先行研究の渉猟も継続していくつもりである。

 さて、digressionが長くなってしまったので、肝心の『セントールの悩み』について掘り下げるのは次回に譲る。それと併せて『神速のゲノセクト』が投げかける問題を改めて整理し、いよいよ標題の「異形とポリティカル・コレクトネス」(およびそこに噛んでくる声優)の話題に入っていくことにする。

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*1:ジョージ・オーウェル(川端康雄訳)『動物農場:おとぎばなし』岩波文庫、2009年、192頁(付録1「出版の自由」)。

*2:キャロラインは咲竹ちひろの漫画『四天王-1』に登場する「顔穴ちゃん」である(かわいい)。その造形については、さしあたりこのツイートを参照。

*3:綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』平凡社、2019年、10頁。

*4:なお「公の秩序」(ordre public)とは、1789年の「人および市民の権利宣言」(いわゆるフランス人権宣言)10条を念頭に置いている。「何人も、その意見の表明が法律の定める公の秩序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たされることがあってはならない」(翻訳は辻村みよ子/糠塚康江『フランス憲法入門』三省堂、2012年、195頁による)。

*5:綿野『「差別はいけない」とみんないうけれど。』、17頁。

*6:木庭顕『誰のために法は生まれた』朝日出版社、2018年、166頁。なお、木庭であれば、論証プロセスを省いたこのような要約には何の意味もないと言うだろうが、ブログという媒体の限界として許容されたいものである。

*7:なお、以下の記述では特に断りがない限り、民事訴訟を前提とする。一部の憲法訴訟など、精緻なシティズンシップの論理で構成された訴えもあるとは思うが、あくまで「民事法が法の中核」であり、「憲法や刑法は実はこの法と政治のミックス」であるから、ベーシックな形態に着目して論じることにする。引用箇所は木庭『誰のために法は生まれた』、165頁。

*8:新堂幸司『新民事訴訟法〔第5版〕』弘文堂、2011年、130-131頁。

*9:この点で、弁護士自身が当事者になるという展開は注目に値する。「余命三年時事日記」を発端とした弁護士への大量懲戒請求や、100万回以上殺害予告をされている弁護士への「とらけんま」はアイデンティティの論理/シティズンシップの論理が融解しつつある兆候なのだろうか(某公共放送をぶっ壊す政党の近時の動向については、さしあたりここに含めないでおく)。

*10:とはいえ、訴訟代理人をつけて訴えを提起すれば、2つの論理の「克服できない対立」が調和させられるはずだ、と楽観視してばかりもいられない。シティズンシップ(訴訟代理人)がアイデンティティ(当事者)に呑み込まれる、あるいは引きずられる事態も珍しくないからだ。セイラーとキャスティーンが端的に述べているように、弁護士にも自己奉仕バイアス(自分に都合の良いように判断が歪められる現象)がかかるのである。リチャード・セイラー/キャス・サンスティーン(遠藤真美訳)『実践 行動経済学:健康、富、幸福への聡明な選択』日経BP社、2009年、325-326頁を参照。

*11:木庭『誰のために法は生まれた』、166頁。

*12:「不当判決」が出るたびに、必ずと言ってよいほど「裁判所が安倍政権に迎合した」旨の批判がTwitterで流れる。確かに裁判官は世間知らずの堅物で、そのくせ風を読む力だけは抜群で、最高裁の人事権に怯えて正義を貫徹できない存在なのかもしれないが、仮にそれが事実なのだとしても、「日本の司法は中世並み」といった諦めの言葉を我々自身が吐き続けるのは望ましくないと考える。裁判というものは、いくら先例拘束性があるとしても、関数に特定の値を放り込むと結果が出てくる類のものではない。一つ一つの事件には各々の当事者の怒りや悲しみがあって、そこにad hocな解決案が提示されるという出発点を失念すべきではない。システム全体が狂っていると言い放つことで、ad hocに救済された人に対して「袖の下」を疑うような事態を招かないかと懸念している。この点については、本エントリの最後の方でまた触れる。

*13:依頼者のために日夜身を粉にして働く弁護士は架空の存在ではない。法曹嫌いの読者がどう考えるかは別にして、シティズンシップの論理(と言うと急にしょぼくなるが……)で闘う弁護士は実在するのである。ここではその一人として、難民支援の最前線で八面六臂の活動を続ける駒井知会弁護士を紹介しておこう。「日本における難民を巡る問題と入管収容問題の現状」という記事を参照。

*14:この点については、山口智美ほか『海を渡る「慰安婦」問題:右派の「歴史戦」を問う』岩波書店、2016年;倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー:90年代保守言説のメディア文化』青弓社、2018年を先行研究として踏まえるべきだが、今回の本筋ではないため、一旦棚上げとする。

*15:いかにも説教臭く、「どの口が言っているんだ」という批判もあるだろうが、こればかりは自分の行いを棚に上げてでも言わなければならないと考えている。

*16:なんだそれは、と石を投げないでほしい。