蛮族の本懐

Ne quid nimisというモットーに抗うための試み。

礫岩のような千葉(2):文豪と我孫子ニスト~白樺派ゆかりの地を歩く~

前回のおさらい

 本連載を最初から読みたい方は以下のリンクからどうぞ。

rasiel9713.hatenablog.com

はじめに(兼 新年のご挨拶)

 2019年12月15日(日)、国文学好きの友人の勧めで、千葉県我孫子市へ行ってきた。私にとって我孫子とは、常磐線で水戸やいわきを往来する際の通過点でしかなく、降り立ったことはない土地であった。しかし、実際に赴いてみると、日本近代文学や日本近代史に関心のある人にとっては楽しめそうなスポットが集まる渋い街だったので、この場を借りて友人に感謝するとともに、半日ほどで廻れる小旅行コースを紹介したい。

 千葉の魅力を伝えるシリーズ、2年ぶりの更新をもって、2020年の新年のご挨拶に代えたい。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

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我孫子という街、そして手賀沼について

 我孫子は江戸時代、江戸と水戸を結ぶ街道の宿場として栄えた街だ。大正時代には柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤が暮らし、一時期白樺派の拠点となったことでも知られている。北の利根川、南の手賀沼の周辺には豊かな自然が広がり、自然公園は我孫子市民の憩いの場となっている。現在、上野東京ラインの開通によって、我孫子~東京間はJR快速40分で結ばれるようになった。我孫子は通勤に便利なベッドタウンとしてますます注目を集めているようだ(我孫子駅周辺にはファミリー層向けのマンション建設が続いている)。

 さて、今回は公共交通機関だけで行ける、文学・歴史ゆかりの地を巡るコースを紹介する。午前10時頃、JR我孫子駅南口を出発。まずは我孫子市と柏市を遮る手賀沼へ向かう。

 手賀沼の広がる場所は、中世末期まで香取海かとりのうみに注ぐ入り江(手下水海てがのみずうみ)だったが、その後利根川本流の逆流による堆積物で出口が塞がれて、堰止湖が生じた。徳川吉宗の治世以来、干拓と新田開発が進められたが、度重なる洪水が原因で事業は頓挫。手賀沼の国営干拓事業が完成を見たのは戦後、1968年になってのことであった。

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 手賀沼は1974年から27年間にわたって湖沼水質汚濁日本一の栄誉をほしいままにしてきたことでも知られるが、近年は自治体を中心に浄化の取り組みが続いている。この日も手賀沼公園では、地元の子供たちが釣りをしたり走り回ったりと元気に遊んでいた。手賀沼の眺望は、こうしてまた次の世代へと継承されていくのである。

 また、自動販売機に描かれた「手賀沼のうなきちさん」は我孫子市のマスコットキャラクターである。なお、手賀大橋近くの山階鳥類研究所現総裁が秋篠宮文仁親王で、かつて黒田清子(紀宮清子内親王)が非常勤研究員として勤めていたという皇族関係スポットなのだが、今回の旅程では足を運んでいない。

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「ハケの道」沿いの文学・歴史ゆかりの地を巡る

 手賀沼公園から「ハケの道」を通って東へ向かう。我孫子市役所に到着するまでの間に、文学・歴史ゆかりの地がいくつもあるので、紹介していきたい。

天神坂、嘉納治五郎別荘跡、三樹荘

 我孫子に集った文人達がこよなく愛したという天神坂を上ると、手賀沼を一望できる高台に、嘉納治五郎別荘跡三樹荘が道路を隔てて向かい合っている。

 講道館柔道の創始者、嘉納治五郎(1860-1938)は我孫子人脈における一つの結節点と言える。1896年に常磐線が開通したことで、手賀沼を望む天神山の高台は別荘地として注目を浴びるようになった。嘉納治五郎も例外ではなく、1911年に別荘と農園を設けたが、これが我孫子に文人達が集うきっかけとなる(後述)。

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 天神山の高台からは富士山が見えるというが、本当だろうか。現在、別荘跡には当時を偲ばせる遺構は何も残っておらず、我孫子市が跡地の所有・管理を行っている。

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 嘉納治五郎別荘跡の向かいに立つのが、嘉納の姪である柳直枝子の別荘で、その名を三樹荘という。その名は、「智・財・寿」の木として村人の尊崇を集めていた三本の椎の木が敷地内に所在することにちなんで、嘉納が名付けたものである。その後、直枝子が谷口尚真(東郷平八郎副官)と結婚し、三樹荘が空き家となったため、嘉納は1914年に甥(直枝子の弟)の柳宗悦(1889-1961)を我孫子に呼び寄せた。そして、柳宗悦が同志の志賀直哉(1883-1971)、武者小路実篤(1885-1976)を我孫子に誘ったことで、我孫子は白樺派の拠点となっていく。

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 1921年、柳宗悦が東京に転居すると、三樹荘は法学者の田中耕太郎(1890-1974)*1、陶芸家の河村蜻山(1890-1967)へとその主を変え、最終的に1953年、歌人の村山正八(村山祥峰)の所有となって現在に至っている。

杉村楚人冠記念館

 次の目的地は杉村楚人冠記念館である。杉村楚人冠(1872-1945)は明治末期から昭和前期に東京朝日新聞で活躍したジャーナリストだ。楚人冠は調査部や記事審査部の導入、縮刷版の発行、『アサヒグラフ』の創刊などの功績で知られ、夏目漱石、南方熊楠、柳田国男などの文人とも交友を結んだ(手賀沼保勝会の括りで嘉納治五郎や村川堅固(後述)とも交流があった)。朝日新聞を「左巻きの反日新聞」と攻撃してやまない連中が好きそうな某新聞には縮刷版がないという構図は、なかなか味わい深い。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、ということなのだろうか(不必要な深読み)。

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 それはともかく、楚人冠は1912年に我孫子に別荘を買い求め、関東大震災で二子を失う不幸を経て、一家で我孫子に移住した。この記念館は楚人冠が建てた母屋を利用しており、設計は建築界の異端児といわれた下田菊太郎(1866-1931)の手になっている。その後も楚人冠により増改築が繰り返され、現在の和洋折衷様式に落ち着いている。

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 澤の家(楚人冠母堂居宅)。

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 邸園を染め上げる紅葉の絨毯が美しい。楚人冠は邸園と邸宅を「白馬城」と名付けていた。

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 楚人冠の書斎で目を引くのは、坪内逍遥訳のシェイクスピア全集だろう。英吉利法律学校(中央大学の前身)を卒業した楚人冠の面目躍如といったところか。

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 楚人冠公園の句碑。杉村楚人冠記念館の裏口近くの丘の上には、「筑波見ゆ 冬晴の おおいなる 空に」と書かれた句碑が建っている。三樹荘に住んだ陶芸家、河村蜻山による珍しい陶製の句碑である。

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白樺文学館、志賀直哉邸跡

 「ハケの道」を西へ、歩みを進める。「ハケ」は崖地形のことで、「水ハケ」というだけあって、現在も道端では湧水が観察できる。なんともジメジメした雰囲気の道を進んでいくと、右手に白樺文学館、左手に志賀直哉邸跡が見えてくる。白樺文学館はブラウザゲーム『文豪とアルケミスト』(通称文アル)とのコラボ(対キモヲタ協力)を行っており、そのせいか、感想ノートはイケメン化された文豪のイラストと鼻息の荒そうなコメントで埋め尽くされていた(ちょっとだけ誇張表現)*2。展示自体もそれほど見るべきものがなかったので、早々に退出して志賀直哉邸跡へ。

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 志賀直哉邸跡には、志賀直哉の書斎のみ残されている。当時、志賀直哉は武者小路実篤邸まで舟で移動していたという。手賀沼はハケの道の手前まで広がっていたのである。すなわち現代にあっても、台風・豪雨などで手賀沼の水位が上がれば洪水になりうるということであり、別荘地が高台に設けられたのも頷けるところである。

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旧村川別荘

 ハケの道沿い、最後の目的地は旧村川別荘である。旧村川別荘は親子二代にわたり東京大学西洋史学研究室で西洋古代史を担当した村川堅固(1875-1946)、村川堅太郎(1907-1991)父子が利用していた別荘であり、現在は我孫子市の所有になっている。

 堅固が我孫子に別荘を構えたのは1921年(土地自体の購入は1917年に遡る)。その背景にも嘉納治五郎という人物が大きく関わっている。熊本出身の堅固は幼少より勉学に優れ、地元熊本の旧制第五高等中学校に進学したが、堅固の在学中に校長を務めていたのが嘉納治五郎その人であった。堅固が嘉納から「巴投げ」を習ったという逸話の真偽の程はともかく、堅固が東京帝国大学卒業後に一時期嘉納の秘書を務めていたことは事実であり、堅固と嘉納は名実ともに師弟関係にあった。堅固が我孫子に別荘を構えたのも、恩師である嘉納を追いかけてのことだった、と推測することに無理はないように思われる。

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 旧村川別荘の母屋。

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 新館。こちらは1926~1927年にかけて増設された。堅固が1925年に朝鮮での古墳発掘の視察へ赴いた際の印象をもとにデザインした、銅板葺き屋根とモザイク床の建物となっている。現在は我孫子市役所に申請することで会議室としても利用できるようだ。こんな場所で読書会や勉強会をやれたら、どれほど素敵なことだろうか。

(2020年3月21日訂正:市民ボランティアの方から、現在は会議室の貸し出しはしていないとの連絡を受けました。確かに我孫子市が旧村川別荘を購入した当初は会議室としての利用をしていたものの、非常口などの防災設備の不備について消防署から指導があったため、貸し出しは中止しているとのことです。)

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 さて、堅固はともかく、堅太郎は岩波文庫の『アテナイ人の国制』などの翻訳で、名前だけは見たことがあるという一般読者も多いのではなかろうか。伝アリストテレス『アテナイ人の国制』といえば、橋場弦が2014年に最新の研究成果を反映させた新訳を刊行したことが思い出される。言うまでもなく、橋場弦は村川堅固以来連綿と続く、東京大学西洋史学研究室・西洋古代史の五代目教員であり*3、『アテナイ人の国制』翻訳のアップデートは東京大学西洋史学研究室の歴史に残る重要な仕事であったと位置づけられる(橋場訳自体の評価は私には行えない)。村川堅固、村川堅太郎、田中耕太郎……とサンプル数は少ないながらも、日本近代史の一断章である東京大学史において、我孫子という舞台が登場するのは大変面白いと言わざるを得ない。特に東京大学の学生及び卒業生は、一度くらいは我孫子を訪れてみてもよいのではないだろうか。

 以上のコースの所要時間は、ゆっくり廻って1時間半~2時間程度。近場でお昼を済ませてから、午後は趣向を変えて、利根川沿いの通好みスポットを攻めていこう。

茨城県取手市の飛び地を歩く:利根川改修工事と小堀の渡し

 日本最大の流域面積と、日本第2位の長さを誇る利根川は、茨城県と千葉県(古くは常陸国と下総国)の自然境を構成している。しかし、利根川の南沿岸に茨城県取手市の飛び地が存在していることはあまり知られていない。これから訪れるのはその飛び地、小堀おおほり地区である。

(2020年3月21日訂正:長谷川晴生氏から旧国境についての事実誤認をご指摘いただきました。ご指摘を踏まえ、記載を一部削除しました。)

 「ハケの道」を東へ進み、千葉県道8号線に出ると、我孫子市役所の向かい側にバス停がある。このバス停から「湖北駅南口」行のバス(13:29発)に乗り、30分ほどでJR成田線・湖北駅に到着。「湖北駅南口」行のバスも、JR成田線も本数が少ないので、あらかじめ時刻表を確認して、決め打ちで乗ることをオススメする。

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 湖北駅前の観光案内板。ピンク色の部分が我孫子市を示しているが、ここで注目してほしいのは、古利根沼の北側が違う色に塗られていることだ。そう、このベージュ色の部分こそが茨城県取手市の飛び地、小堀地区なのである。

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 湖北駅から北へ20分ほど歩くと、古利根沼に行き当たる。釣り人の間ではそこそこ知名度がある様子の古利根沼だが、元々は利根川の流路であった。かつて利根川は現在の流路より南側を蛇行して流れていたが、水害が絶えなかったことから、1907~1920年にかけて利根川改修工事が行われて流路が直線に変更された。その際に残った三日月湖が古利根沼なのである。この流路変更に伴い、小堀地区は利根川によって南北に分断されることになった。以上が利根川の南沿岸に茨城県取手市の飛び地が存在する経緯である。

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 「鳥獣保護区」の標識にも「茨城県」の文字が見える。もはやここは我孫子ではない。

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 古利根沼の水は圦樋いりひによって利根川に注いでおり、圦樋の近くには「小堀圦樋新設記念」の石碑が建てられている。石碑の裏面には関係町村長の名前が刻まれており、「大正拾年八月一二日建之」とある。利根川改修工事の翌年、1921年に圦樋が設けられたということが分かる。

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 さて、この日最後の目的地、小堀の渡しへ向かう。小堀の渡しは利根川改修工事によって交通の不便を感じた小堀住民が1914年に運行を開始した渡し船で、1970年に取手市営となり、2002年以降は水郷ボートサービス株式会社という民間業者に委託されている。現在は一日7便(午前3便、午後4便)、1時間間隔で小堀と取手ふれあい桟橋を往復しており、利根川流域に残る希少な渡し船として、観光客を楽しませている。

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 「平山」という名字を見るとYMN姉貴を思い出してしまうのは私だけだろうか(風評被害)。

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 船頭によれば、利根川の水深は小堀地区沿いで3~4mほど。川幅も日本の川にしては広い方で、泳いで渡るのは危険そうである。

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 終点の取手ふれあい桟橋に到着すると、時刻は15時半を回っていた。常磐線の鉄橋が目の前に見えていることからもお分かりのように、取手ふれあい桟橋から取手駅までは徒歩10分ほど。取手駅から上野・東京方面にスムーズに帰ることができる。

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 おそらく一般的なアクセスとしては、取手駅まで電車で来て、取手ふれあい桟橋から渡し船に乗ることが想定されているのだろうが(この日も船頭から珍しい客だと驚かれた)、我孫子側から攻めることで、文学・歴史ゆかりの地めぐりもできることは、お分かりいただけたと思う。都内から1時間足らずでスタートできる一筆書き小旅行、興味があれば是非廻ってみてほしい。

Appendix

 我孫子駅南口徒歩2分の洋食レストラン、コ・ビアンは大変リーズナブルな価格でたくさん食べられるのでオススメ。なお、私に我孫子を紹介した友人はラビットハウス・イン・アビコとこの店を呼んでいた。外観だけやがな、と思ったのは内緒だ。

covian.owst.jp

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*1:田中耕太郎については、商法学者、法哲学者、比較法学者、国際法学者、第2代最高裁判所長官など、幾通りか形容の仕方があるが、今回は最もプレーンな肩書を使用してみた。

*2:なお、「対キモヲタ協力」の訳語については、長谷川晴生氏のツイートを参照:https://twitter.com/hhasegawa/status/671811362444713984

*3:就任時期の早い順に、村川堅固、村川堅太郎、伊藤貞夫、櫻井万里子、橋場弦。東京大学西洋史学研究室の歴代教員年表も参照:http://www.l.u-tokyo.ac.jp/seiyoshi/timeline.html